『草原の実験』

午後、ふと試写があることに気づき、いつもの京橋の試写室で『草原の実験』(アレクサンドル・コット監督)という映画の試写を観てきた。これが予想外の傑作だった。
映画の舞台は数十年前の旧ソ連圏のどこか。後述するような雰囲気から、1950年代のカザフスタンあたりだろう、と予想して観ていたのだが、後でプレスキットを読んだところ、1949年のカザフスタンをモデルにしているようだ。
見渡す限り草原の大地に立つ一軒家で、少女が父親と暮らしている。少女も父親も、ボーイフレンドっぽい少年もモンゴロイドである。そこに白人の少年が訪れて、三角関係のようなやりとりがなされる。
ひたすら美しい画面が続く。父親が夕日を食べているように見せるところなど、美しいだけでなく、ユーモアや安心感をもたらしてくれるシーンがすばらしい。しかし、そんな平和は続かないのだ。
あるとき、父親が体調を崩し、近くでとてつもないことが起きていることがわかってくる…。
『草原の実験』というタイトルと「タルコフスキーの『サクリファイス』を想起させ…」、「“風吹く”ロードショー」といった宣伝文句からその後の展開は想像ついたのだが、実際、想像通りにに物語は進んだ。しかし物語が想像通りだったからといって、つまらなかったわけではない。
この映画の作品としての最も大きな特徴は台詞がないこと。しかし物語は十分すぎるほど伝わってくる。映画には過剰な台詞など不要、という映画通・映画人たちがよく口にする見解を再確認した次第。台詞がない映画はいくつかあるが、僕はキム・ギドグ監督の『春夏秋冬そして春』を思い出した。無口な親子が終末に向き合う、という展開は、数年前に観た『ニーチェの馬』(タル・ベーラ監督)に似ているかもしれない。
僕が強く惹かれたのは、音、色、光、そして構図である。とりわけ、これでもかというほど頻発する左右対称の構図の美しさに目を奪われた。もしかすると、全カットの半数以上が左右対称かもしれない。当然ながら、スタンリー・キューブリックウェス・アンダーソンの諸作品を思い出した。主題が近いものとしては、チェルノブイリ事故後に放棄された街を撮ったドキュメンタリー映画なのに、左右対称の画面が頻出する『プリピャチ』(ニコラウス・ゲイハルター監督)をも想起させた。
実験が描かれる実験的な映画である。秀逸。すべての人にとって面白い作品ではないかもしれないが、3.11を経験した多くの人に観てほしい作品である。そして3.11後の日本で、近い主題を扱った映画はたくさん制作されているのに、どれもこの作品に及ばないことを残念に思う。

今年観た映画ベスト3

ごぶさたしています。こちらでは…。
さて今年も観た映画ベスト3を書きます。
今年はおよそ100本の映画を劇場で観ました。毎年この時期にベスト3を書いていますが、年によっては「ベスト3」といってもその「分母」、つまり観た映画の総数が少なくて、自分で書いてて説得力が弱いと思ったこともありました。今年はまあまあでしょうか(それでもいくつか重要作を見逃しています)。
ということで、順不同で−−。


●『猿の惑星 新世紀(ライジング)』(マット・リーヴス監督)

この枠(?)にこの作品を挙げるか、それとも『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』を挙げるか迷った。いわずとしれた『猿の惑星』シリーズのリブート版2作目である。前作でシーザーたち類人猿が人間社会に反旗を翻してから後、“猿インフルエンザ”の流行により人類がほぼ死滅した未来社会において、独自の文明を築きつつある猿たちとわずかに残った人間たちとの出会い、そして争いが描かれる。猿の側にも人間の側にも、いわゆるタカ派ハト派がおり、一瞬だが両者のハト派どうしによって共存の可能性が示されたのだが、しかし…。戦争というものはこうして引き起こされるのだなあ、と実感させる一作。アクション、特殊メイク、CDなども文句なし。リブートもの、リメイクもの、続編ものには、手抜きや安易さを感じることも少なくないが、その側面にもおいても1つの理想型・模範となるものであろう。


●『イーダ』(パヴェウ・パヴリコフスキ監督)

舞台は1960年代のポーランド修道院に暮らす1人の少女がある日、自分がユダヤ人であることを告げられ、自分の両親について知るため、判事をしているという叔母を訪ねる旅に出る。その過程で、ナチスにもソ連にも翻弄されてきたポーランドにとって、おそらくは最も知られたくない歴史的事実が徐々に浮かび上がる…。(このあたりの展開は、ポール・バーホーベンが祖国オランダの暗部を描いた『ブラックブック』を彷彿とさせる。)また、主人公の修道尼アンナ=イーダにも変化が訪れるのだが、彼女の最後の選択は少し意外にも思えるし、当然にも思える。要所要所で流れるジャズやモノクロの映像も印象的。


●『ホドロフスキーのDUNE』(フランク・パヴィッチ監督)

僕はホドロフスキーのファンではない。大学生のとき、ジョン・レノンなどが絶賛していると知って、『エル・トポ』などいくつかの作品をVHSで観たが、まったく理解できなかった。その後、『エル・トポ』のリマスター版がつくられたとき試写で観たが、とりあえず画面で何が展開されているのかだけを理解することができた。また、デヴィッド・リンチ監督の『デューン/砂の惑星』は好きでも嫌いでもないが、評判が悪いことは知っており、当初、ホドロフスキーが映画化しようとしていたことはどこかで読んだことがあった。本作は、その挫折したホドロフスキー版『DUNE』がいかにして企画され、進められ、そして挫折したかを、当事者たちへのインタビューをまじえて問い直したドキュメンタリー。挫折した企画のメイキング・ドキュメンタリーなんてそもそも成立するのかよ、と思いながら観てみたところ、ギーガーやメビウスミック・ジャガーピンク・フロイド、ダリ、オーソン・ウェルズなど、とんでもない人物たちの関与が次々と明らかにされ、そして、『DUNE』という企画そのものはつぶれてしまったものの、ホドロフスキーを中心に彼らが生み出したアイディアが、『エイリアン』や『スター・ウォーズ』にも大きく影響したことが描かれる。映画史ドキュメンタリー(?)の傑作であろう。


◯総評など

ベスト3に入れるかどうか、いちばん迷ったのは『インターステラー』(クリストファー・ノーラン監督)である。いくつか疑問点もあるものの、文句なしに面白い作品であったし、『2001年宇宙の旅』のフォロアー的映画としても素晴らしかったのだが、ほかに挙げるべき作品があったので、次点にとどめておく。

ドキュメンタリーでは、『大いなる沈黙へ』(フィリップ・グレーニング監督)、『リヴァイアサン』(ルーシャン・キャステーヌ=テイラーほか監督)、『聖者たちの食卓』(バレリー・ベルトーほか監督)のように、ナレーションはもちろん、インタビューさえほぼない、というスタイル−−フレデリック・ワイズマン的作風?−−でつくられた作品が目立ったような気がする。説明や台詞を使わなくても、伝わるものは伝わる、という命題は、劇映画によってもよい教訓になるのではないか。

よかったのは以上ですが、逆に悪かったのは…あまりいいたくありませんが、「裏切られた」という意味では、『トランセンデンス』、『LUCY』、『荒野はつらいよ』あたりでしょうか…。

すごくよかったわけでも、悪かったわけでもありませんが、『複製された男』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)は、初見で理解できなかったことが少し悔しかったです。

総じて、収穫の多い年だったように思います。来年もいい作品にめぐり合いたいものです。みなさん、よいお年を。

『THX1138』、『1984』、『すばらしい新世界』、『1Q84』

ごぶさたしています。こちらでは…。
昨日、東京海洋大学海洋科学部での非常勤「生命文化」の最終回を終えることができた。
その前の講義では、ジョージ・ルーカスの劇場デビュー作『THX1138』を題材に「ユートピアディストピア」について話した。『THX1138』を一例として、人々はユートピアディストピアをどのようにして描いてきたか、想像してきたかということでもある。
その過程で、ジョージ・オーウェルの小説『1984』やオルダス・ハクスリーの小説『すばらしい新世界』について話したのだが、学生からのリアクションペーパーで、村上春樹に『1Q84』という小説作品があり、あれはディストピア的な話ではなかったように思います……という意見があった。いい指摘だと思う。授業の中で話し忘れたことでもある。
語るべきことはやまほどあるのだが……とりあえず、『1Q84』では、オーウェルがいまでいう「現存(した/する)社会主義国家」を想定して予言したものとは違う1984年が進行中であること、そこでは実在する団体をモデルとしているらしきカルト団体が描かれていること、彼らは彼らなりのユートピアをめざしていること、などは認められるだろう。
そして興味深いことに、『THX1138』のDVDにおけるオーディオコメンタリー(音声解説)によると、ルーカスはこの映画を撮影するにあたり、坊主頭のスタッフが足らなかったため、「シナノン」という団体のメンバーをエキストラとして大勢雇ったという。その後、彼らがまさに『THX1138』のような世界をつくって生きる集団へと変貌してしまったことに、ルーカスは驚いたらしい。
調べてみたところ、シナノンは1950年代にチャールズ・デートリッヒという人物が設立した薬物中毒患者の自助グループだったらしい。シナノンはコミューン化し、事業や学校を始め、メディアやセレブに注目されていった。その過程で、メンバーらは結束を固めるためであろうか、女性も含めて髪の毛を剃り、子どもをつくることが制限されるようになった。既婚のメンバーは離婚させられ、男性にはパイプカット、女性には強制的な中絶なども行われたという。ようするにカルト集団化したわけだが、この手のグループではよくあるように、やがて彼らは暴力事件などを起こして自壊したという。


参考:Synanon's Sober Utopia: How a Drug Rehab Program Became a Violent Cult
http://paleofuture.gizmodo.com/synanons-sober-utopia-how-a-drug-rehab-program-became-1562665776


どうしても、『1Q84』に出てきた「証人会」や「さきがけ」、そしてそれらのモデルになったといわれる実在の団体を思い起こさせる。
現存社会主義国家もカルト集団も、それらを始めた人々は、少なくとも当初は彼らなりのユートピアの実現を目指していたはずだ。しかしその実質的な成功は困難らしい。彼らがつくりあげた社会は、ある成員にとっては居心地がよい一方で、別の成員にとっては不快かもしれない。そうした状況は抑圧や内紛を起こすだろう。かろうじてそうした状況をごまかすことができても、あまりにも外部との違いが激しい社会は、外部との摩擦を起こしうる。
その一方で、現行の資本主義、あるいは「資本制」はユートピア実現に成功しているのだろうか? そのように考えるナイーブな人はほとんどいないだろう。
社会主義な社会もまたディストピア化しうることを、ハクスリーは、オーウェルが『1984』を書く前に、当然のように示唆していたように思う。『THX1138』には、『1984』だけでなく『すばらしい新世界』を参考にした痕跡がある。『1Q84』には、『すばらしい新世界』への言及はないが、1984年には「ビッグ・ブラザー」ならぬ「リトル・ピープル」の出現が描かれている(が、その解釈はきわめて困難である)。
学生からは、「ユートピアを描いた文学や映画ってありますか?」という質問もあった。前々回はトマス・モアの『ユートピア』やジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』などを紹介した。映画では宮崎駿の『風の谷のナウシカ』など挙げてもいいかもしれない。文学では、コミューンのポジティブな側面が描かれている作品として、池澤夏樹の『光の指で触れよ』がいいかもしれない。この作品がハクスリーと同名の『すばらしい新世界』の続編作品であることは意味深である。
また、ウォシャウスキー姉弟らの『クラウド アトラス』のネオ・ソウルのパートでは、まさに「消費主義」の浸透したディストピアが描かれる。最後の講義では、これまでの総括として、『クラウド アトラス』を題材に、「ジャンルミックス」やメディアの時代的役割、ユートピア観の対立、それを前提とする抑圧とそれへの抵抗という物語における普遍的テーマ、などについて話した。レポートの課題もこの作品についてのものとした。
この講義やその過程で鑑賞した映画を通じて、科学技術の功罪、異なるユートピア観の対立のやっかいさ、映画というメディアの面白さ、メディアを読み解く能力の重要性などが、学生さんに伝わればいいな、と思う。さて、その成果はいかに−−

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小保方博士論文と「先行研究のレビュー」をめぐって

ごぶさたしています、こちらでは…。
昨日、早稲田大学の、正確には早稲田大学に提出された小保方晴子氏の博士論文に対する調査委員会の記者会見を取材してきました。
今回は諸事情で記事を書きませんので、エッセイのようなものをここで書いてみます。
今回の発表にもいろいろなポイントがあるのですが、僕がとりわけ、小保方氏が博士論文の「序章」をコピペですませてしまい、調査委員会がそれを不正とみなしながらも、重要な部分ではないことを理由に学位の取り消しには当たらない、とみなしたことに不満を抱くことには、何層かの理由があります。
まず一般的にいって、科学(学問)は、過去の研究の積み重ねのうえに初めて成り立つものです。これが前提です。論文の序章では、通常、先行研究のレビューがなされます。つまり先行研究では何が明らかにされてきたのか、逆に言えば、何が明らかにされていないかを確認します。その明らかになっていないことを、自分は明らかにするのだ、と宣言をするのです。たとえば実験なら、自分の実験の歴史的重要性を伝えるためには、きわめて重要な過程です。決して手抜きなどできないはずです。
そこをコピペですませてしまうということは、先達たちへの冒涜となることはもちろんですが、自分が自分の研究の歴史的重要性を理解していない、もしくはそれを示すことを怠っていると理解せざるを得ません。
蛇足ながら、以上のことは文系と理系でとくに違いはないはずです。学問一般に通じることです。
にもかかわらず、調査委員会は、小保方氏による盗用を「著作権侵害行為及び創作者誤認惹起行為」と認めたものの、「上記問題箇所は学位授与へ一定の影響を与えているものの、重要な影響を与えたとはいえないため、因果関係がない」とみなしてしまいました。先行研究のレビューは手抜きしてもいい、といっているようなものです。
そして僕がこの件にこだわることには、個人的な理由があります。ご存知の方もいると思いますが、僕は博士号を持っています。もちろん生命科学でも医学でもなく、社会学、つまり文系の博士です。前述したように、先行研究のレビューの重要性については、理系も文系も関係ありません。
僕が2009年の6月に博士号請求論文の第一稿を提出した後、指導教官や主査、副査の先生方から、何度もしつこくダメだしをされたことは、「先行研究をレビューせよ」、もっといえば「先行研究を批判せよ」ということでした。
指導教官は加藤秀一先生(性現象論)、主査は柘植あづみ先生(医療人類学)、副査は佐藤正晴先生(メディア論)と林真理さん(科学史、外部委員。なお僕は林さんと「先生」付けで呼ばないことを固く約束しています)でした。とくに柘植先生からは厳しく何度も何度も厳しく叱られました。
考えてみれば、当たり前です。理系であろうが文系であろうが、近い分野の研究の蓄積を前提とし、何が明らかになっていて、何が明らかにされていないかをはっきりとさせ、その過程で先行研究の限界を明示し、それを乗り越えるために何をすればよいかと考え、そしてそれを実践するのが研究というものでしょう。僕は、たいへん恥ずかしいことなのですが、そのことを博士課程の4年になるまでしっかりと理解していませんでした。でも、何度かダメだしされているうちに遅まきながらなんとか理解し、第何稿かで、先行研究のレビューとその限界の指摘、ややおおげさにいえば、先行研究の批判を書き加えました。論文の中核も、それに応じたものになるよう加筆・修正しました。すると、論文はするっと査読(含む公聴会)を通りました。
「するっと」は言い過ぎですね(笑)。公聴会でも、それまでの審査会と同じくボコボコに批判されまくったのですが(汗)、とにかくその批判に応じた修正をしたら、最終的な審査を通りました。2010年3月のことです。
ところで、僕が批判した先行研究とは誰の研究だったのでしょうか? それらはほかならぬ、加藤秀一先生、柘植あづみ先生、林真理さん、美馬達哉さんらの緒論でした。ようするに、僕は査読者4人のうち3人を、先行研究のレビューにおいて血祭りにした、いや失礼、批判させていただいたのです。まあ、「批判」とはいっても、「誰々はAを論じているが、Bを論じていない」というようなものだったので、よくいって「限界の指摘」かもしれませんが(苦笑)。その程度のものではありましたが、査読者の先生方は、その拙い批判とその克服を認めてくれたのでしょう。その結果、論文を受理してもらえたのです。議論のスジ自体は、第1稿とそんなに変わっていません。
先行研究の批判とその克服、という、いわば形式というかスタイルのようなものを整えることが僕には必要だったようで、査読者の先生方はそれを粘り強く指摘してくださったのです。
よく考えれば、当たり前です。既存の議論でまだ答えが出ていないことを見つけること、既存の議論よりもほんの少しでも先に進むこと、それを目指さなければ、研究なんて行う意味がありません。
そして加藤秀一先生は、僕と同じく、学術雑誌で規定された形式に乗っ取った文章を書くことはお嫌いなようですが、形式はともかくとして、既存の議論のうち最も高レベルなものを対象とし、その最も中心的な議論の限界をあぶりだして批判する、ということを、最も的確に実践できている論客だと僕は認識しています。少なくとも、僕が関心を持つ分野を論じている人では、加藤先生に並ぶ人はあまりいないと思います。だからこそ僕は、自分の指導教官になってもらいたくて加藤先生の研究室のドアを叩いたのでした。2003年のことだったでしょうか。その加藤イズムを、僕は博士課程4年になるまで、体得はおろか理解もできていなかったのは、いま思うと恥ずかしい限りです。
ちなみに僕の博士論文のテーマは、簡単にいうと、幹細胞研究をめぐる論争史の分析です。その過程で、フーコーなどの生権力・生政治論を援用しています。いまのところ公表されていませんが、国立国会図書館などに収録されています。
その延長上にあるテキストを最近書きました。いうまでもなく、STAP細胞事件について書いたものです。『現代思想』の8月号に載ります。amazonでは予約が始まっているようです。もしよければ、ご覧いただけたら幸いです。

恒例!? 今年観た映画ベスト3

……というわけで、毎年大晦日恒例(?)、今年観た映画ベスト3をご紹介します。以下、順不同です。


●『クラウドアトラス』(ウォシャウスキー姉妹、トム・ティクヴァ監督)

マトリックス』シリーズ以降、いまいちぱっとした作品のないウォシャウスキー姉弟の新作。6つの異なる時代も物語が同時進行するが、いくつかの要素によって、それらが1つの大きな物語を形成する。ある時代の登場人物にかかわる音楽や小説、映画などが別の時代の物語に登場する。さらに、同じ魂を持っているということになっている登場人物がそれぞれの時代の物語に登場する。彼らは名前だけでなく、人種や性別も時代によって異なるのだが、同じ人間の、いわゆる生まれ変わりであることは、同じ俳優が演じることで表現されている。
一見別々の物語が、それら相互のかかわりを示唆しながら同時進行する、という映画は、周知の通りそれほど珍しくはない(『ミステリー・トレイン』、『ショート・カッツ』、『海炭市叙景』、『バベル』etc.)。しかし、舞台が過去から未来にまでおよび、しかも輪廻転生の要素まで加えられた作品は、僕には思い浮かばない(あるらしいが、僕は未見)。物語進行の複雑さは『インセプション』に匹敵するかもしれない。そのため“わかりにくい”という評価は少なくないだろう。僕自身、それぞれの物語における人物関係など、パンフレットを読んでみて初めて理解したことも少なくない(できれば映画を繰り返し観ることで理解すればもっと楽しかったかもしれない)。
また、原子力発電をめぐる陰謀やクローン人間を奴隷化したディストピア未来社会など、僕好みの要素がちりばめられているところもいい。
失敗作だという評価もあるようだが、これほど成功しにくい要素を含む作品の企画を認めた映画会社やスポンサー、それを作品化したウォシャウスキー姉弟をはじめとする制作スタッフたちの努力には敬意を払いたい。
DVDで見直していろいろと発見してみたい。原作も読みたくなった。


●『風立ちぬ』(宮崎駿監督)

もうすでに最盛期は過ぎたかなと思っていた宮崎駿の新作。周知の通り、零戦の設計者・堀越二郎の生涯が、同時代の作家で、名前に「堀」という一文字を共有しているだけの堀辰雄の小説『風立ちぬ』(や『奈緒子』)の物語と重ねられている。それだけで十分に独創的、というか、とんでもない発想でつくられた映画作品といっていいが、見どころはもちろんそれだけではない。飛行機の設計にかかわる蘊蓄、愚かな戦争に突入していく当時の日本の世相、そこに優秀な技術者ではあるが不器用な男と美しいが病いにおかされた薄幸な女との恋愛物語が展開する。
戦争には乗り気ではないが、飛行機の設計には前のめりになる堀越の姿は、「原爆の父」としてマンハッタン計画を指導しながら、戦後には水爆使用の禁止を主張したロバート・オッペンハイマーを彷彿とさせる……と思ったのは僕だけではないだろう。いや……堀越というより、堀越を描いた宮崎の姿が、というべきか。
画面づくりの素晴らしさに関しては、説明不要であろう。このタイミングで震災(関東大震災)が描かれたことや、次から次へと続く妄想の連続も、好ましい。
僕としては、優秀な操縦技術を持ちながら戦闘を避け続けたため「臆病者」と呼ばれた零戦パイロットを描いた『永遠の0』と合わせて観ることをお勧めしたい。


●『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)

ユダヤ人にして、ドイツからアメリカに亡命した政治哲学者ハンナ・アーレントの伝記映画、と思って観てみたら、少し違った。ナチスの戦犯ルドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴したアーレントは、『ニューヨーカー』への寄稿で彼のことを反ユダヤ主義者などではなく単なる平凡な役人に過ぎない、と書いたが、それには「アイヒマンを擁護した!」との批判が各方面から寄せられた。本作ではそのいわゆるアイヒマン論争が主に描かれている。アーレントの著書『イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)が原作であるようにも思える。
最後に、アーレントによる講義というかたちで、そうした批判に対する彼女からの反批判がなされるのだが、そこで彼女があらためて主張したのは、アイヒマンが批判されるべきことは、彼がまさに役人として自分の職務に忠実であった、いいかえれば自分の行為がもたらす結果をまったく考えなかったことであった。そして「考えないこと」が罪だというその批判は、アイヒマン反ユダヤ主義者と決めつけるアーレント批判者にもあてはまるのだろう。
「考えないこと」の罪、というか愚かしさは、3.11後、残念なほどに明らかになってしまったと思う。十分にデータなどの事実を精査することなく、批判に耳を傾けることもなく、根拠も薄弱な主張を、その影響もろくに考えないまま続ける人は、ネット上にうんざりするほどいる。彼らの姿はアイヒマンや、アーレントの主張を理解することなく攻撃した人々と酷似している。
ついでながら、アイヒマンを描いたドキュメンタリー映画スペシャリスト』が再公開されるという。僕は公開時に観ているはずだが、もう一度観たい。さらについでながら、ロバート・デュバルアイヒマンを演じた『審判』という映画があるらしいが、日本語圏ではDVD化されていないようだ。これを機にしてDVD化してほしい。


○総評
今年は最後の最後になって、傑作が多かったように思う。コーマック・マッカーシー原作作品に独特の恐怖感がじわじわとくる『悪の法則』(リドリー・スコット監督)、アイロニートリビア、美しさに満ちた『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ』(ジム・ジャームッシュ監督)、おそらくパニック映画の歴史に残る恐怖感を描ききった『ゼロ・グラビティ』(アルフォンソ・キュアロン監督)、そして美術もの、難病もの、恋愛ものかと思いきや予想外の大転回を見せた『鑑定士と顔のない依頼人』(ジュゼッペ・トルナトーレ監督)など、ベスト3に入れるべきかどうか迷った。
ちなみに今年のワーストは、『かぐや姫の物語』(高畑勲監督)。まあ、『風立ちぬ』と同じジブリ作品ということで、期待しすぎてしまったということもあるが……。
来年もよい作品にめぐり合いたいものです。みなさん、よいお年を。

『マンガで世界を変えようとした男』

昨日午後、京橋テアトル試写室にて、チャーリー・ポール監督『マンガで世界を変えようとした男』の試写を拝見した(まだ公式サイトはない?)。同作はイギリス出身のアメリカ在住マンガ家ラルフ・ステッドマンを追ったドキュメンタリー。ステッドマンは、「マンガ」といっても、日本でいうマンガ、つまりストーリーマンガではなく、どちらかというと「風刺画」に近い作品を書く人。“ゴンゾー・ジャーナリスト”とも呼ばれるハンター・S・トンプソンの『ラスベガスをやっつけろ』のイラストなどで有名な人らしい(僕は不勉強にもステッドマンのことは知らなかった。トンプソンのことはもちろん知っている)。なお『ラスベガス〜』の映画版を主演したジョニー・デップもインタビューとナレーションで出演している。

ハンターは周知の通りすでに故人だが、ステッドマンといっしょのところを撮ったフィルムがずいぶん残っていたらしく、それらが多用されていた。そのほかウィリアム・バロウズテリー・ギリアムなども出演。ステッドマンの作品が加工されてアニメ化された動画も使われていた。よくあるといえばよくある演出ではあるが、悪くはない。ハンターとの交流が、美しい側面でなく確執も描かれていたところもいい。
欲をいえば、ステッドマンのことをよく知らない者としては、1つひとつの作品をもう少しじっくりと見せてほしかった。とくにニクソンの肖像など風刺色の強い作品は興味深いので、美術解説番組のようなな解説的な見せ方をしてもよかったのではないか。おそらく、彼のファンである監督は1つでも多くの作品を見せたいと考え、結果的に、あのようなあわただしい画面切り替えになってしまったのかもしれない。またステッドマンを知っている人を観客として想定したのかもしれない。惜しいが、映画そのものの価値がそれで下がるわけでもない。

ポール・マッカートニー東京公演

11月19日(火)、ポール・マッカートニーの東京公演を鑑賞した。非の打ち所がないといってもいいほどの素晴らしいものだった。
最近は、セットリストがすぐにネットにアップされるようになり、便利になった。昨夜の公演もすでにアップされている。
http://www.setlist.fm/setlist/paul-mccartney/2013/tokyo-dome-tokyo-japan-13c4e571.html
僕は、新譜『NEW』から1、2曲演って、あとはビートルズ・ナンバー、しかもシングル曲ばかりだと予想していたのだが、いい意味で裏切られた。

NEW

NEW

オープニング曲が「Eight Days a Week」であることはラジオなどで知らされていた。大好きな曲なので、事前に知らなかったらもっと感動したかもしれないが、まあいいだろう。
セットリストを見ればわかる通り、「Jet」ほか、ウイングスのナンバーも結構多い。
「Let Me Roll It」はウイングスのナンバーらしいのだが、「ジミ・ヘンドリックスに捧げる(不正確)」とポールは言った。
「My Valentine」はカヴァー・アルバム『キス・オン・ザ・ボトム』からの選曲だが、歌う前にポールは「ナンシーのために」と言った。モニターには、手話を思われるものが…。どういう含意があるのかは僕にはわからなかった。(後日、ナンシーは現在の妻の名前であり、手話をしていたのはジョニー・デップナタリー・ポートマンで、PVと同じものであることがわかった。またカヴァー・アルバムの収録曲ではあるのだが、この曲はポールのオリジナルであることも。)
キス・オン・ザ・ボトム

キス・オン・ザ・ボトム

「Maybe I'm Amazed」は、僕はずっとウイングスの曲だと思っていたのだが、ファースト・ソロ・アルバムの収録曲であることを比較的最近知った。ポールは歌う前に「リンダのために」と言った。
「ジョンのために」と言って歌った曲もあったはずだが、失念してしまった…。(後日、「ジョンのために」歌ったのは「Here Today」だったことがわかった。http://ro69.jp/live/detail/92451
驚いたのは、「ジョージのために」と言ってマンドリンを持ち、「Something」を歌ったことだ。この曲はいうまでもなく、ビートルズ・ナンバーではあるが、ジョージ・ハリソンの曲である。まさか、ポールのライブでこの曲を聴くとは…20年前、エリック・クラプトンのバンドでジョージ・ハリソンが来日公演したときも、この曲を演奏したのを思い出した。僕は同じ東京ドームでそれを観ている…。
特筆すべきは「Back in the U.S.S.R. 」だ。大好きな曲なので、僕は狂喜乱舞していたのだが、連れ合いが「プッシー・ライオットを応援している」と耳元でささやいた。確かにモニターには「Free Pussy Riot」という文字が写った。僕は恥ずかしながら知らなかったのだが、プッシー・ライオットはロシアの女性パンクバンドで、プーチン批判をしたことによって投獄されてしまったらしい。ポールは彼女らを解放するようプーチンに呼びかけてもいるようだ。
http://newclassic.jp/archives/3283
二度目のアンコールでは、「福島のために…」と「Yesterday」が歌われた。できれば「東北のために…」と歌ってほしかったが、望みすぎであろう。そしてなんと、 「Golden Slumbers」 「Carry That Weight」 「The End」のメドレーが、つまり『アビー・ロード』後半の組曲が再現された。ギターバトルも…。
ビートルズの曲は多くのアーティストによってカヴァーされている。僕はこの秋、クラムボンを観たときには「Lady Madonna」を、元ちとせを観たときには「Ob-La-Di, Ob-La-Da」を、ポール来日記念ということで演らないかと期待したが、どっちもなかった。でも、両曲とも、ポールで聴けてよかった。
僕が青春時代にギターでコピーしたり、バンドで演奏したりした曲が5曲もあったこともうれしかった(「All My Loving」「Maybe I'm Amazed」「Let It Be」「Day Tripper」「I Saw Her Standing There」)。
声もきちんと出ていて、演奏も70代とは思えないほどシャープだった。サービス精神も旺盛。ギターやベースを取り替えるときには必ずポーズが。MCのかなりの部分は日本語だった!(英語のときには、モニターに字幕で訳された。)
とにかく、1万6000円もの高いチケットを買って観る価値のある公演だった。たとえ、ポールの大きさが豆粒ぐらいにしか見えなかったとしても…。



なおこの公演では、何曲かでは口パクだったのでは、という指摘があった。僕は気づかなかった。ロックファン失格であろうか? 素朴な疑問として思うのは、全部オケならともかく、バンドは生で演奏して、ボーカルのみ音源を使うというのは、技術的に可能なことか、かえって難しいのではないか、ということだ。ドラマーがボーカルトラックと同期するメトロノーム音をイヤホンで聴いていたのだろうか? 
ただ、YouTubeには数日前の大阪公演の動画がやまほどアップされており、それらを見る限り、すべて明らかに生である。

また、僕は今日知ったのだが、最近のコンサートは、スマホでの撮影は認められているという。普通に考えると、スマホでの撮影がOKだとすると、すぐバレるような口パクなどしないような気がする。静止画のみOKとのことであって、動画撮影を形式的に禁止しても、それを止めることはもうできず、撮影され、いずれYouTubeなどにアップされることなど、ポールや主催者側は承知しているだろう。だとすると、やはり、すぐにバレる口パクなど、可能な限り避けようとするはず、と考えるのが自然だと思う。大阪公演で生で歌ったため、のどがつぶれてしまい、東京公演では口パクの割合が増えた、ということかもしれない。あるいは、ポールらの演出能力、あるいはカリスマ性があまりに秀でているため、僕を含む大半の観客は声のかすれにすら気づかない一方で、ごく少数の観客は口パクを疑った、というのが真相なのかもしれない。