事故報告書

原子力災害対策本部がまとめた事故報告書について各報道機関が報じていますが、いまだに "その内容が7日に明らかになった" なんて表現している媒体もあります。
こういう表現は、政府や行政幹部への夜討ち朝駆け取材でリークされた情報を元に書かれる記事でよく使われるのですが、この報告書は昨日、つまり7日の時点で全国民に明らかにされています(「原子力安全に関するIAEA閣僚会議に対する日本国政府の報告書」)。いやはや…。
そういえば高速増殖炉もんじゅが1995年にナトリウム火災を起こしたとき、当時の科学技術庁が報告書をまとめ、わざわざ科技庁に足を運んで担当部署から実物を入手したとき、名前と住所を書かされたことを覚えている。
担当者に名刺をくれといわれて、人に名刺をくれというなら自分が先によこすのが礼儀だろう、といい返してケンカになったのは、このときだったか、別のときだったか。たぶん別の何かのときだっただろう。
いずれにせよ、隔世の感がある。感慨深いといえば感慨深い。

生物学的市民権

6日にすでに報じられたことだが、いわき市の男性が東京都内で献血をしようとしたら、放射線被曝を理由に断られたという。

日本赤十字社側は「検診医が献血による心身への負担など健康に配慮し実施を見送ったようだ。福島県民の献血を断る規定などはないが、検診医の放射能への理解が十分でなかった可能性もあり、現場教育を再度徹底する」と話している。

http://mainichi.jp/select/science/news/20110607k0000m040020000c.html

ある人はこの件について

科学的な判断の是非はある。しかしこのような「人権」問題が「生物学的市民性」の問題として今後たびたび現れるだろう。

http://twitter.com/#!/harudexi/status/78332304799449088

とツイートしていた。
人類学者レイナ・ラップ、社会学者デボラ・ヒースらは、いわゆる難病の患者やその家族がインターネットなどを通じて情報を交換し、社会に問題を提起すると同時に医学研究コミュニティとも連携して、原因遺伝子や治療法の探索などもめざす、そうした新しい市民のあり方を「ジェネティック・シティズンシップ(遺伝学的市民権)」と呼んだ。社会学者ニコラス・ローズは、ハンチントン舞踏病の患者コミュニティの動向などを踏まえてその概念を拡張し、「バイオロジカル・シティズンシップ(生物学的市民権)」と名づけた。もはや「市民権は人間存在に特有の生命維持に必要な特徴によって形成される」からである、というのがローズらの解釈である(『生そのものの政治』、プリンストン大学出版、24頁)。
そして僕はローズらの見解も踏まえたうえで、後述するように「人体の資源化」が進行すれば、それと同時に「生物学的市民権」もまた進展するだろう、と考えている(博士論文、未刊行など)。人体は資源、あるいは資本としての価値をともなうようになり、それに応じて人間そのものもしくは社会のあり方をも変容させる。
しかしながら思想史上、最初に「生物学的市民権」という概念を提案したのはローズではなく、アドリアナ・ペトライナである。ペトライナは、ウクライナチェルノブイリ原発事故の生存者たちが、ウクライナの市民であることともに、放射性物質の放出の犠牲者という立場によって、自分たちの市民権を「構成し」「演じて」いる、と分析する。

〔賠償金〕数え上げのシステムは、出現したばかりの国民国家の観念と制度に特別な関係性を持っており、それは放射能汚染の大災害の影のなかに構成されているものである。〔略〕ウクライナでの市民権の構成のまさに条件となっているのが生物学的なものである〔略〕(カウシック・サンダー・ラジャン著『バイオ・キャピタル』、青土社、165〜166頁)

ここまで確認して、福島県の人が献血を断られた、というエピソードを思い出してほしい。また福島第一原発で事態収拾の作業に従事する作業員たちの造血幹細胞を、彼らが深い放射線被曝を被ったときにそなえて、あらかじめ採取しておくことをめぐり、議論が起こったことも思い出してほしい。
そしておそらく大部分の人は忘れているか、もしくは最初から知りもしないと思うが、僕は、幹細胞技術などのバイオテクノロジーが人間へと応用されるに従い、人体は資源とみなされるようになり、すわなち「人体の資源化」が進行し、人体あるいはその供給源である人間は、資源としての価値を測られ、品質管理されるようになるだろう、と、少なくとも2001年から述べ続けてきた。
チェルノブイリ事故とゲノミクス(ゲノム科学)を契機として提起された「バイオロジカル・シティズンシップ(生物学的市民権)」が、フクシマ事故と幹細胞技術を契機として、この日本にも生じている。しかしながら、「市民権」とはいっても、むしろそれが拒絶されたによって、その存在が顕在化したということは皮肉であり、悲しいことである。

The Politics of Life Itself: Biomedicine, Power, and Subjectivity in the Twenty-first Century (In-formation)

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バイオ・キャピタル ポストゲノム時代の資本主義

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