『ナウシカ』再考

諸事情で『風の谷のナウシカ』のDVDを観る。いわずと知れた名作中の名作を通して観るのはこれで何度目であろうか。10回以上観ているはずだが(20回ぐらい?)、3.11後に観るのはもちろん初めてだ。いつも言っていることだが、作品というものは、観る側によっていくらでも違うものになりうる。いまの僕は40代で、10代ではない。そして日本は3.11を経験している。当然ながら、『ナウシカ』はすでに、1984年の(えッ、1984年!?)子ども向けアニメ映画というカテゴリーからは、かなり逸脱した存在になっている。
物語の舞台は、はるか未来。「火の7日間戦争」と呼ばれる大規模戦争によって文明世界がいちど滅んだ後、地球の大半は、「瘴気」と呼ばれる有毒物質を出す植物と、扱いがやっかいな「蟲」と呼ばれる動物(節足動物?)が支配する「腐海」に覆われている。火の7日間戦争を生き延びた人類は、瘴気と蟲に脅かされつつ、ほぞぼそと生き延びている。主人公ナウシカの住む「風の谷」という地域でも、人々は「酸の海」と呼ばれる海から吹く風で、風車を回して井戸の水を汲みながら静かに暮らしている。
映画は、ナウシカの師であり、父の親友で、腐海の秘密を探っているというユパの旅の様子から始まる。ユパはある村、いや村の跡を訪れ、そこが腐海に飲み込まれて滅んだことを確認する。残り少ない人類もまた、腐海という“自然”によって、滅ぼされかけているように見える。腐海で蟲に襲われたユパはすんでのところでナウシカに助けられる。1年半ぶりに風の谷に戻ったユパは、ナウシカの父である族長ジルに、いくつもの集落が腐海に飲み込まれ、しかも人間たちの間では戦争の気配があることを伝える。
そこにトルメキアという軍事国家の船――といっても飛行機のようなものだ――が墜落する。ナウシカはそれに乗っていた少女を救出するが、鎖につながれた彼女は、積荷を燃やして、と言い残して事切れる。そして、その積荷を回収しようとして、トルメキア軍が風の谷を制圧するが…と物語は展開する。
多くの人が観たことがあるという前提で書くが、その積荷とは、火の7日間戦争で文明世界を滅ぼした「巨神兵」と呼ばれる人口生命体の幼生であった。巨神兵の化石は腐海の各地に存在するが、生きているものはないとされているが、それがペジテで発見され、それをペジテとトルメキア、双方が利用しようとしている。
火の7日間戦争は、どうしても核戦争をイメージさせる。ラストで巨神兵がその戦闘能力を発揮するのだが、そのビーム砲のようなものが放たれた後に生じるキノコ雲は、核爆弾のそれそのものである。巨神兵自体は、あまり詳しくは述べられないのだが、バイオテクノロジーによって生み出された戦闘用ロボットのようなものだろうか(しかし機械工学をベースとする、いわゆるロボットとは、イメージがまるで違う)。
僕を含め多くの人たちは現在、「核時代」という言葉を、核エネルギーを駆使する原子力だけでなく、細胞核に干渉するバイオテクノロジーの時代、という意味で使い始めているが、巨神兵は、その2つのどちらをも想起させる。また登場人物たちは、巨神兵の復活について、動き出したら後戻りはできない、という意味のことをしばしば口にする。これは原発を思わせる。
人々は火の7日間戦争の後、1000年の間に何度も火を使って腐海を焼き払おうとしたが、そのたびに「王蟲」をはじめとする蟲の大群が街を襲い、それを滅ぼしたことを知っており、そのため腐海や蟲を畏怖している。しかしその一方でペジテは、それを戦法に応用してもいる。冒頭でユパが訪れる腐海に飲み込まれた街や、蟲の大群に襲われたペジテは、2011年の日本のスクリーン(といってもパソコンのものだが)を通してみると、津波に襲われた被災地を想起させる。実際、映画の最後では、風の谷も王蟲の大群に襲われそうになるのだが、集落の指導者たちは、人々に対して高台に逃げるよう呼びかける。蟲の大群は十分なほど津波を想起させる。
風の谷のナウシカ』は、人間の自然に対する驕りを批判する“エコロジスト”映画として受容されているが、ことはそれほど単純ではない。自然は決して人間に優しくないし、少なくとも風の谷の人々はそれを理解している。そして風の谷の人々は、風車だけでなく火も使う。メーヴェガンシップには、エンジンらしき装置もある。そして風車も科学技術だ。
ナウシカは、父や村の人を尾蝕む病気を治すべく、ひそかに続けている実験やユパの話などを通じて、腐海の植物は、旧世界の人間たちによって汚染されてしまった大地を浄化する機能を持っており、蟲たちはその守り神である、と推測する。
ところで……映画版『ナウシカ』をご覧になった方は多いと思うが、コミック版『ナウシカ』をお読みになった方はどれだけいるだろうか。映画版だけを見ても、この作品が、自然に対する人間の驕りへの警告、といったような単純なメッセージのみを含むものではなく、もっと複雑な含意があることはうかがいしれるのだが、コミック版ではその映画版ではかすかに示唆されていただけに過ぎない要素が全面展開する。
映画版についてはかなりネタバレしてしまったが、コミック版については、ここでは控えよう。というか、僕はコミック版の全巻セットも持っているはずなのだが、引っ越しのときにどこかにまぎれてしまったようで手元になく、したがって細部を確認できないのだ。「諸事情」の本番までしばらく時間があるので、買い直して読み直すべきか。〈核時代の映画史〉をとらえるために…。



追記:
ナウシカ』、とくにコミック版の解釈については、稲葉振一郎先生の『ナウシカ解読』(窓社)と加藤秀一先生の『“個”からはじめる生命論』(NHK)出版が必読。武田徹さんの日記6月3日付けも参考になる。

そしてコミック版のナウシカもまたそうした人間の原罪に向き会おうとした作品だったのではないか。

http://162.teacup.com/sinopy/bbs/index/detail/comm_id/1232


追記その2:
ナウシカ』の世界を、パラレルワールドの日本へ少し変更し、ナウシカというキャラクターを男にしてみると、漆原友紀のコミック(およびテレビアニメ、実写映画)『蟲師』とその主人公ギンコになる……というのは考えすぎだろうか。



追記その3:
映画版『ナウシカ』を初めて見たとき、僕が思い出したのは、SFの古典の一つ、ブライアン・オールディスの『地球の長い午後』(早川文庫)である。現在の文明がいちど滅んでしまった後に、荒々しい自然におびえながら暮らす人類、という設定はどこか似ている……というのは考えすぎか。

ナウシカ解読―ユートピアの臨界

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〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)

〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)

蟲師 (1)  アフタヌーンKC (255)

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地球の長い午後 (ハヤカワ文庫 SF 224)

地球の長い午後 (ハヤカワ文庫 SF 224)