マウリッツハイス、ベルリン、『最初の人間』

本日は、そろそろ届くであろうと予想していたものが届いていないので、美術展を2つ、試写を1つ観てきた。周知の通り、いま日本ではフェルメール作品を見せる展覧会が2件開催されており、しかもどちらも上野の美術館なので、まとめて観るには今日ぐらいしかない、と思って観てきた次第。



まずは東京都美術館で「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」 http://t.co/cwzMKnGh を観る。展覧会の名前通り、オランダのハーグにあるマウリッツハイス美術館の所蔵品が展示されており、オランダの巨匠たちの作品をたくさん観ることができた。

目玉はいうまでもなく、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」。僕は2006年にオランダに行ったとき、アムステルダムで宿を取れなかったので、ハーグに泊まったのだが、そのついでに同美術館を訪れたことがある。その建物は個人の邸宅を改造したものらしく、そのため規模は小さいのだが、所蔵品の充実ぶりに感心した記憶がある。そのときは確か、「真珠の耳飾りの少女」は「出張中」でそこにはなかった。しかし僕はヨーロッパのどこかでこの作品を観た記憶があるのだが、いつ、どの美術館でのことなのか思い出せない…。
それはともかく、今日ここで観ることのできたフェルメール作品はこれと「ディアナとニンフたち」。後者は長らく、フェルメールではない者の作品と思われていたらしいが、ある時期の研究でフェルメールによる作品であることが確認されたという。
真珠の耳飾りの少女」は、これからインスピレーションを受けてつくれた同名映画まであるが、ひさしぶりに観た感想としては、「思っていたほどスカーレット・ヨハンソンと似てないな」(笑)といったところ。ま、しょうがないけどね。
そのほかステーン、レンブラントなどオランダの巨匠たちの作品を数多く観ることができた。僕としては、レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」と再会したかったところだけど、それは望みすぎであろう。十分に満足。



昼食を摂ってからすぐそばの国立西洋美術館で「ベルリン国立美術館展」 http://t.co/PgJ3fpeT を観る。こちらも題名通りのもので、僕はたぶん、大学生のときに訪れたことがある(が、もちろん、そこで観たものについては覚えていない)。

こちらで展示されていたフェルメール作品は「真珠の首飾りの少女」。まぎらわしいが、「首飾り」である。観た感想は、美しい、の一言に尽きる。「初来日」とがあるが、どこかで観た記憶がある。大学生のときの記憶とは考えられない。おそらく、今年の春に「フェルメールからのラブレター展」で観た「手紙を書く女」の記憶であろう。両者の色合いと構図は似てなくもない。フェルメールといえば、青色というイメージがあるが、「真珠の首飾りの女」も「手紙を書く女」も、黄色がたいへん美しいことを再確認できた。
レンブラントの作品は「ミネルヴァ」が展示されていた。ドイツにある美術館の所蔵品を見せる展覧会なのに、僕の記憶に印象深く残ったのはオランダの作品ばかりであるのは、僕の関心がそちらに向かっているからなのか、もともとベルリン国立美術館がオランダの作品に力を入れているからなのか…。



2つの展覧会を観た後、「上野松竹デパート」の地下にある「上野古書のまち」を少しだけのぞく。ここは9月9日に閉店され、建物自体が取り壊される。街がきれいになることはいいことだ。しかし街の雰囲気がますます均一化する傾向には、素直にうなづくことはできない。



京橋に移動して、いつものテアトル京橋で『最初の人間』(ジャンニ・アメリオ監督)という映画の試写を観る。アルベール・カミュの自伝的な小説、しかも未完となった遺作を映画化したらしい。僕は、予備校から大学にかけての時期、カミュの主な作品を読んだ。とくに『異邦人』には、戸惑いと衝撃を受けた記憶がある(なぜか僕の中ではカミュカフカがセットになっている)。
おそらくカミュ自身の投影である作家の主人公が、故郷のアルジェリアを訪問する。いまなお同地に住む母親や叔父、恩師、そして幼なじみを訪ねる。幼なじみの息子は政治犯としてとらえられており、主人公は彼ら親子のために尽力する。この手の映画ではお決まりのように、物語は現在と過去の回想とが交代で進行する。「現在」といってももちろん、アルジェリアでは独立運動が起こっていた1957年のことであるが…。
観た印象は悪くない。当時の雰囲気をリアル感じることができただけで十分である。未完の作品が原作ということで、映画ではどのようにまとめられるのかが興味深かったが、この映画ではオチらしいオチもなく、やや唐突にエンディングを迎える。おそらく原作もこの通りなのであろうが、これでよかったと思う。下手にオチを付けても不自然になるだけだ。
なお、保守派フランス人に罵倒され、アラブ人に共感しつつも、しかしテロを否定するというカミュの態度は、「クロワッサン事件」をめぐるフーコーの態度を彷彿とさせたが、まともな知識人の態度としては、これで当たり前であろう。
僕的には十分に佳作だと思うが、アルジェリア史やフランス文学に詳しい人の意見や感想も聞いてみたいところ。