『ウィンターズ・ボーン』

日曜日のことだが、日比谷のシャンテ・シネで『ウィンターズ・ボーン』を観る。前評判があまりにもいいので、期待しすぎは禁物とは思いつつも、期待して観てみた。
この映画をひと言で表現すれば、17歳の女の子が主人公なのに彼女が最初から最後まで1度も笑わない物語、である。いかに壮絶な世界が描かれているか、想像していただけるだろうか。
舞台はミズーリ州の、貧しい僻地といっても過言ではない地域。17歳のリーは、幼い弟と妹、心を病んでしまった母親と暮らしている。その暮らしぶりはあまりに貧しく、時代が現代なのか疑いたくなるくらいだ。そこに保安官がやってきて、覚醒剤の製造で逮捕され、いちど釈放された父親が裁判に出席しないと、保釈金の担保になっている家と森を取り押さえる、と彼女に告げる。彼女は父親を見つけようと、伯父や父の知人と思われる人物を訪ね歩くが、みな一様に冷たい。首を突っ込むな、知らない方がいい、と言われ続ける。彼女は家族を養おうと、軍隊に入ろうともするが、両親の許可が必要なため、その希望も阻まれる。(アメリカで、彼女のような境遇な人々が進んで入隊を希望することについては、説明不要であろう。)やがて彼女にも暴力がふるわれる。この土地ではいわゆる法律は役に立たないらしい。そして父の運命も明らかになる……。
彼女が経験したことは、とても17歳の女の子のそれとは思えない、壮絶なこと。宮台真司氏はビデオニュース・ドットコムでこの映画について、日本映画の『誰も知らない』を思い出した、と言っていたが、それもうなづける。僕は『海炭市叙景』や『悪人』を思い出した。僕は、外国人が映画を通じて日本を知りたいのならば、東京を舞台にした作品だけを観ていてはだめで、ぜひとも前述2作品など地方を舞台にした作品を観るよう薦めるだろう。それと同じように、アメリカ人の良心的な映画ファンは、映画を通じてアメリカを知りたいならば、ニューヨークやカリフォルニアを舞台にした作品ばかり観ないで、『ウィンターズ・ボーン』のような、僻地を舞台にした作品を観るよう薦めるだろう、と勝手に想像する。というか、町山智浩氏がどこかでそう言っていたはずだが、確認できない(苦笑)。

『原子力戦争 Lost Love』

月曜日、メーガクでの講義の後、林衛さんからお借りしたDVDで『原子力戦争 Lost Love』を観る。そのために情報センターで「CPRMデッキ」を借り、教務部で空いている教室を使う許可をもらい、教員ラウンジで機材ボックスの鍵を借りた。小さめの教室を独占して、ポメラでメモをとりながら観た。
原作は田原総一郎、主演は原田芳雄。1978年の作品。これがなかなか面白かった。
東北のある浜辺で、男と女の心中死体が見つかる。背後には原子力発電所。新聞記者・野上はそこにスクープの匂いをかぎつける。その町に東京からチンピラ・坂田がやってきて、ある女を探す。その女こそ、浜辺で見つかった女・青葉望で、坂田は彼女のいわゆるヒモだった。望の心中を信じられない坂田は、野上、望の妹の翼、父、兄、そして望が心中した原子力技術者である山崎の妻・明日香、山崎と最後に会ったという労組の人物などとかかわりあい、徐々にこの町の影でうごめく巨大な力に気づいていく。労組の男は死に、坂田にも暴力がおよぶ。そして警察に逮捕される。坂田は何度も、この件にはかかわらず、東京に帰るよう警告される。そして関係を持った山崎の妻から、原子力発電所の事故にかかわる資料を入手し、それを野上に渡す。野上にも、取材をやめるよう圧力がかかる。坂田は明日香の行動に不審を抱き……というのが、『原子力戦争 Lost Love』の主なあらすじである。
望の兄は野上に、この町は漁師の町ではなくなり、いまでは税収の9割が原発になった、と言う。原発は彼の家族もばらばらにしてしまったらしい。そして彼らの愛憎劇の背後には国際レベルの原子力発電開発競争があることも明らかになってくる…。
なんだか懐かしい雰囲気の映画だ。『チャイナ・シンドローム』と『野生の証明』を合わせたような感じだ。(そういえば昨晩観た『ウィンターズ・ボーン』とも少し似ている。)
ロケ地は、ネットでは、福島第一原発という説と第二原発という説がある。途中、原田演じる坂田が原発の正門から敷地内に入ろうとすると、警備員は、坂田を注意するだけでなく、カメラに向かって「ここは撮影禁止です!」と警告する。つまりこのシーンだけ、マイケル・ムーア的なドキュメンタリー調になっている。偽ドキュメンタリー、やらせドキュメンタリー的でもある。そういえば、8月に林衛さんと女川原発の近くまで行ったとき、その裏門を撮影していたら、スピーカーから声が聞こえてきて、「ここは撮影禁止です」と注意されたこともあったっけ…。 http://t.co/oA6aE7Vv
原発の危険性だけでなく、政治経済的な問題も描かれていたところがよかった。これまで作品の存在自体を知らなかったことが恥ずかしいぐらいだ。