生-政治、生-経済、生-資本

 昨日の夜、大久保にて、ネットラジオ(JCcast)の収録に参加。僕は、健康や病気と貧困や格差との関係について、ある本の内容を紹介しながら話題提供した。赤木君、山下君もそれぞれ自分の関心について話した。ここ数日中に公開されると思われる。乞うご期待。
 終了後、みんなと延辺料理のお店へ。延辺というのは、中国のなかでも北朝鮮の近くの地方らしく、その料理も、僕のこれまでの食経験でいえば、中華料理と韓国(朝鮮)料理をミックスしたような印象だった。このお店の売り物は、ヒツジ肉の串焼きで、美味だった。

          ※
 もうすでに聞き飽きたような話だが、政府はiPS細胞研究への予算を増加するらしい。

iPS細胞、予算倍増要求 文科省など3省方針

 京都大学の研究者が世界で初めて作製した新型万能細胞(iPS細胞)の研究を加速するため、文部科学省など3省は、来年度予算で今年度当初比ほぼ倍増の合計約80億円の研究費を要求する方針だ。iPS細胞研究は米国で成果が相次いでおり、日本は引き離されつつある。若手研究者らに絞った研究事業を立ち上げるなど、研究者のすそ野を拡大して米国に対抗する。
 文科省は今年度に約30億円を投入し、京大と理化学研究所東京大学慶応義塾大学を中心に研究している。2009年度は支援額を2倍前後に拡大し、若手研究者や医師、企業の研究者の参入を促す取り組みなどを強化したい考えだ。(07:00)

 iPS細胞に限らないが、バイオ関係の研究にはたいへんなカネがかかる。
 これまで何度か紹介してきたアメリカの社会学者ニコラス・ローズは、そうした状況を、ミシェル・フーコーの提示した「生-政治」という概念を踏まえながら、「生-経済」と呼ぶ。

 生物学や医療は、分子レベルで実践されるときには、長期間の投資や高価な設備の購入、人員の整った研究室、臨床試験の繰り返し、規制のハードルに見合うよう求められる評価への財政的な関与を必要とする。手短にいえば、見返りを達成する前の、長年に渡る大規模な予算の配分である。〔略〕生-政治〔バイオポリティクス〕は、生-経済〔バイオエコノミクス〕になるのだ。(Nikolas Rose, The Politics of Life Itself, Princeton Univercity Press, 2006, p.31-32)。

 ローズは、イギリスの社会学者キャサリン・ワルドビーがマルクスを踏まえながら、「生-価値」という言葉を提案したこと、自分とその同僚がそれをさらに拡張したことを紹介する。

 キャサリン・ワルドビーは当初、「生-価値〔バイオバリュー〕biovalue」という言葉を、死者に由来する身体や組織が、生者の健康や生命力〔バイタリティ〕vitalityの維持や強化のために移転させられる道筋を表現するために提案した(Waldby 2000)。より一般的には、私たちはこの言葉を、生命力そのものが価値の潜在的な源となる筋道の過剰を意味するものとして使うことができる。つまり、生きる過程における生命力という特性から抽出された価値としての生-価値、である(Novas and Rose 2000, Waldby 2002)。(ibid. p.32)

「価値」というのは、辞書的にいえば、物事の役に立つ性質・程度のことであり、商品は「使用価値」と「交換価値」とを持つ(『広辞苑第五版』など)。使用価値とは、物の有用性、人間の欲望を満たすことのできる性質であり、交換価値とは、ほかの商品の一定量と交換しうる、その商品の値打ちのことである(同前)。
 マルクス自身は、次のように説明している。

 人間生活にとって一つの物が有用であるとき、その物は使用価値になる。〔略〕有用性は商品の身体特性によって生じるのだから、この身体なしには存在しえない。〔略〕使用価値は、使用され、消費されてはじめて使用価値として現実のものになる。使用価値は富の素材的内容をなしているが、そのさい、富の社会形態はどのようなものでもかまわない。われわれが考察する社会形態では、使用価値は同時にまた、もう一つの別のものの素材的な担い手になっている。それがすなわち----交換価値である。(『資本論 第一巻(上)』、今村仁司ほか訳、筑摩書房マルクス・コレクションIV)、2005年、原著1867年、56〜57頁)

 ドイツ人であるマルクスは「一七世紀のイギリスの著作家たちにあっては、まだしばしば使用価値には「worth」が、交換価値には「value」が使われている」と付記しているのだが(同前57頁)、ネット上で読める『資本論』の英訳では、「使用価値」は「use value」、「交換価値」は「exchange value」と訳し分けられている。
 マルクスが考察した社会形態とは、もちろん19世紀の資本制社会であり、それと21世紀の資本制社会とのあいだには、共通点もあれば、相違点もあるだろう。その相違点を見極めるために、ローズやワルドビー、後述するフランクリンらは、さまざまな経済学用語に「生- bio-」という接頭語を付ける。

 交換の生-経済的な〔バイオ経済的な〕循環には、その組織原理のように、生物学的な過程における潜在的な価値の捕獲がある。つまり、人間の健康の価値であると同時に、経済成長の価値でもある価値である。(Rose, op.cit. p.32-33)

 ローズは、現代の「生-経済」の新しさに注目すると同時に、その古さにも注意を促す。

 さらには、私たちは、こうした発展の新しさの過大評価について注意深くなる必要がある。人間は初めから、自然世界の生命力的な性質を、自分たちの便宜に取り入れた。動物や植物の飼養化によって、である。彼らは、ウシのミルク生産能力やカイコの絹生産能力を、生-価値の生産のために利用したとき、それらの特性を技術に投入した。生物の生命力的な能力の捕獲、飼養化、規律訓練、道具化である。(ibid. p.34)

 彼によれば、サラ・フランクリンもまた、マルクスを引きながら議論しているらしい。しかも、クローンヒツジ「ドリー」を例に挙げて。

 サラ・フランクリンが指摘したように、マルクスは『資本論』第3巻において、資本が農業において、独立的かつ支配的な力となる過程の分析において、ウシやヒツジの飼育の資本化を議論している。フランクリンが多くの道筋で示唆するのは、ヒツジのドリーのクローンである。ドリーのクローンは、ベンチャー資本の投資を通じてのみ、そしてそのミルクのなかにヒトの疾患を治療するための市場化可能な酵素を産生できる遺伝子導入「バイオリアクター」ヒツジをつくるという目的をともなってのみ、可能だったのだ。それはまた、「蓄積〔ストック〕」という資本の最も古い定義を、それが現代の生-資本〔バイオキャピタル〕において取る、最も新しい形態へと結び付ける。それゆえ人間の野望は、生命力の生きている存在と資本化可能な存在の能力のなかに、文字通りに「具体化された」。さらにこのことは、生-経済〔バイオエコノミー〕における「蓄積」や「家畜」の資本化の、そのほか多くの例の範型として役に立ちうる。たとえば幹細胞の資本化である(Franklin, forthcoming 2006)。(ibid. p.265-266)

 ローズが続ける。

さらにある意味では、人間の欲望や野望を、余剰surplusを抽出するために、それ〔余剰〕を食料や健康、あるいは資本にするために、生きている存在----生物〔有機体〕や臓器、細胞、分子----のなかに具体化するという現代の企図は、そうした初期の出来事に遡りうる。しかし、何かが変わってきたのだ。(ibid. p.33)

 つまり生-経済そのものは新しいものではなく、それには長い歴史があるのだが、その過程で、とくに近年、変化が生じてきたというのだ。

その言葉そのもの----生-経済〔バイオエコノミクス〕----の、まさにその登場が、思考と行動のための新しい空間を成立させるのだ。ピーター・ミラーと私があるところで主張したように、「経済〔エコノミー、配分〕」の統治は、知覚可能な領域として統治される場所を表象する推論的な機構を通じてのみ、可能となる。それには、その構成要素部分が多かれ少なかれ体系的な様式において互いに結び付く限界や特徴がともなう(Miller and Rose 1990)。というのは、生-経済〔バイオエコノミー〕が地図化され、管理され、理解される空間として現れるためには、それは一連の過程や関係として概念化される必要がある。そうした過程や関係は知識に敏感に反応するものであり、知られ、理解されうるものであり、その経済〔エコノミー〕のなかで、またそのうえで活動することによって国家や企業の力を評価し、増加させることを求めるプログラムの分野もしくは目標となりうるものである。そして生-経済〔バイオエコノミー〕は実際のところ、統治可能な、また統治された空間として現れるのだ。(ibid. p.33)

 ローズとミラーのいう「知覚可能な領域として統治される場所を表象する推論的な機構」としての生-経済の統治空間というのは、いまいち理解しにくいのだが……おそらく、ドゥルーズのいう「管理社会」のことでなかろうか(『記号と事件』宮林寛訳、河出書房新社、1992年、原著1990年)。
 ローズは、製薬企業やバイオテクノロジー企業からなる共同体が、「生-資本〔バイオキャピタル、BioCapital〕」という言葉を使い始めていることに着目する。少しアイロニーを織り込みつつ。

 ある部分においては、このことは、「生-資本〔バイオキャピタル〕」という言葉そのものの習慣化によって強化されている。この言葉は、生-経済〔バイオエコノミー〕の構築において、活発な行為主体〔エージェント〕である。このように「バイオキャピタル・ヨーロッパBioCapital Europe」の第3回会議は、2005年3月にアムステルダムで開催された。ヨーロッパ中の製薬企業およびバイテク企業のためのイベントである。〔略〕また、この「生-資本」という言葉は、世界中の、数々の投資組織やコンサルタント組織の名前に使われている。マルクス主義者やポスト・マルクス主義者は、「生-資本制〔バイオキャピタリズム〕」が新しい「生産様式」であることに同意しないだろうが、生-資本の存在と重要性は、思考や行動の道筋と同様、途絶えられえない。(ibid. p.34)

 こうしたローズらの見解を踏まえるならば、いうまでもなくiPS細胞もまた、生-政治、生-経済の一部であり、生-資本の流れと無縁ではないだろう。08.8.29

The Politics of Life Itself: Biomedicine, Power, and Subjectivity in the Twenty-first Century (In-formation)

The Politics of Life Itself: Biomedicine, Power, and Subjectivity in the Twenty-first Century (In-formation)

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)