当事者の感情

 平日とまったく同じように部屋を出て、午前中、御茶の水のいつもの編集部でひと仕事してから、昼過ぎに徒歩で本郷に向かう。途中、コンビニで買ったものを食べながら歩いたのだが、これから向かうところに、歩きながら食事をするなんていう経験がある人はいるのだろうか、と思ってしまう。
 あるメーリングリストで案内されていた研究会に参加したのだが、この研究会はいまのところ研究者のみを対象としている、と聞いて、かろうじて3月いっぱいは学生だけど4月からはフリーターでしかない僕は、ああ、また場違いなところに迷い込んでしまった、と後悔する。感情的な話をする当事者を含めていない、自分たちは未熟でそれに対応できないから、だそうだ。
 僕は物書き稼業を始めて以来、これまで何度も、さまざまな当事者----中絶や不妊治療の経験者、障害児の親など。ほぼすべて女性----から切実な内容のメールや手紙を受け取ったことがある。僕が彼女らの感情に、100点満点で対応できたとは思わない。0点だったこともあるかもしれない。どう返事しようか迷っているうちにパソコンが壊れ、同時にメールも失ってしまったこともあり、いまも悔やんでいる。
 当事者の感情に対応する覚悟もなく、その努力すらしない人たちが学問をしているという現状は、嘆かわしいとしか言いようがない。発表そのものは秀逸だったので、よけいに……。
 10年ぐらい前、あるシンポジウムの後、アメリカで臓器移植を受けたという人と真摯に語り合っているKさんの姿を見て、立派だなあ、と思ったことがある。そのKさんから共著書が届いた。4月の半ばにはKさんが発表する研究会があるので、それまでにしっかりと読んでおこう。10.3.21