『アイ・コンタクト』、『石井輝男 映画魂』

 午後、京橋の映画美学校で、2本の映画の試写を観る。
『アイ・コンタクト』は“当たり”だった。僕はスポーツにはほとんど興味がない。したがって、スポーツをテーマにした映画もめったに観ない。たとえば『ジダン』はサッカーのドキュメンタリー映画として定評がある作品らしいが、僕は観ていない。そのサントラを愛聴しているにもかかわらず、である(サントラを担当したのはモグワイであり、そのCDは事実上、モグワイのオリジナル・アルバムなのだ)。
 この映画は、ろう者の女子サッカー日本代表チームを、聴覚障害者のスポーツイベント「デフリンピック」への参加過程を中心に追ったドキュメンタリーである。一種のスポ魂モノとみなしていいだろう。繰り返すが、僕はスポーツにはあまり興味がない。しかし、映画における病い(病者)や障害(障害者)の描かれ方には関心を抱いているので観てみたところ、サッカーに興味がなくても十分に楽しむことのできる秀作だった。主人公であるチームの選手たちは、同じ聴覚障害者の女子サッカー選手とはいっても、当然のことながら簡単にひとくくりにはできない。その障害の度合いもさまざまなら、生まれ育った環境――たとえば自分以外の家族が聴者かろう者か――などもさまざまである。その多様性はきわめて興味深い。
 知的障害者のサッカーチームを描いた作品を撮ったこともあるという監督は、男性で、聴者という立場を考えると、少し図々しいとも思える質問を彼女たちに投げかけている。「結婚するなら、ろう者、それとも聴者?」。答えはもちろんさまざまであり、「ろう者がいい」と答えた者と「どちらでもいい」と答えた者がいた。しかし「聴者がいい」と答えた者はいなかった者はいなかったと思う。「ろう者がいい」と答えた1人の発言に会場は爆笑。「(聴者は)表裏がありそう」。
 演出面については……少しネタバレしてしまおう。デフリンピック最後の試合、デンマーク戦の場面では、音声が切られた。観客は半ば強制的にろう者と同じ状態にさせられ、彼女らの世界に引きずり込まれる。菊地凛子がろう者の女子高校生チエコを熱演した『バベル』でも、似たような手法が使われていたはずだ。『バベル』では、音声が途絶えることにより、観客はチエコの孤独を共有させられた。彼女の深い孤独にやるせなさを感じた観客も多いだろう(僕もその1人。ちなみにチエコはろう学校のバレー部員である)。しかし『アイ・コンタクト』では、観客は選手たちの……なんといえばいいのだろう、一体感のようなものを共有させられる。もともとよく聞こえず、プレー中には補聴器の使用を禁じられている彼女たちが、グラウンドでお互いの意思を疎通させる手段こそが「アイ・コンタクト」なのだ。
 試写の案内状をもらっていなかったら、観なかった可能性が高い作品だが、観てよかったと思う。多くの人に観てほしいと思える逸品であった。
 もう1本は『石井輝男 映画魂』。すでに故人である石井輝男という映画監督を描いた、いわば“メタ”映画である。僕はこの映画についてはコメントできる資格がない。あまり石井作品を観ていないからだ。文芸批評だけを読んでも、批評対象の文芸作品を読んだことがなければ、何もいえないのと同じである。たぶん『ねじ式』はビデオで観た。子どものころ、平日の夕方、いかがわしい映画がテレビで放映されていたことをかすかに覚えているが、僕が観たそれらのなかに石井作品が含まれているかもしれない、とも思ったが、定かではない。
 2本の映画を観た後、銀座に移動してあるものを買ったのだが、それについてはまたいずれ。10.6.23