『小屋丸』、『彼女が消えた浜辺』

 映画の試写を2本続けて観る。
 映画美学校で観た『小屋丸』は、フランス人の美術家が、新潟の里山「小屋丸」に暮らす人々を追ったドキュメンタリー。小屋丸は典型的な過疎地で、いまでは3組の老夫婦と、ひと組の外国人家族が暮らすのみ。外国人家族というのは、小屋丸に魅せられて住み着いたブルガリア人の音楽家とブラジル人の妻、そのあいだに生まれた子どもたち。2000年から開かれている「大地の芸術展 越後妻有アートトリエンナーレ」というイベントが、この映画が制作されるきっかけになったらしい。プレスキットによれば、すでにヨーロッパではテレビ放映されているとか。監督のあいさつと上映後の質疑応答によれば、過疎や農業の衰退といったことは、世界的に普遍的な問題であり、その意識が制作の動機になったという。全編モノクロ。当然のことながら、『阿賀にいきる』や『長江に生きる』、『こつなぎ』など、過疎化・高齢化が進む地域社会を描いたドキュメンタリー作品を彷彿とさせた。
 テアトル京橋で観た『彼女が消えた浜辺』は、イランの映画。映画好きの僕でも、イラン、というか、日本、アメリカ、ヨーロッパ以外でつくられた映画を観る機会は残念ながら少ない。少ない機会を逃さないように、と思って観てみたのだが、予想以上に秀逸だった。ストーリー自体は、とくにイランあるいはイスラム圏が舞台であるということを意識する必要はあまりないものであり(もちろんところどころにイスラム圏的なエピソードもなくはないが)、日本やアメリカでリメイクされてもおかしくない。題名通り、“行方不明もの”なのだが、『フライトプラン』や『フォーガットン』のような浅はかな作品ではない。むしろ、女性が突然消えるというストーリーの中核は、僕には村上春樹の一連の小説を思い起こさせた。とくに短編「納屋を焼く」や『アフターダーク』。それら以外でも、村上作品ではしばしば女性が姿を消すことは周知の通り。脚本も書いたという監督は、もしかして村上に影響を受けていたりして。まさかね。結末は、やや曖昧に描かれている。観客の解釈にまかせる、という態度は、嫌いな人もいるかもしれないが、僕は作品として正しいと思う。もっと曖昧にしてもいいのでは、と思ったぐらいだ。
 日本、アメリカ、ヨーロッパ以外の国々にも、知られざる映画作品がまだまだあると思われる。以前に比べたら、レンタル店にもだいぶ入荷されるようになった。最近のものは比較的よく揃えられているようだが、やや古いものは少なくとも僕の近所の店では見あたらないことが多い(そしていわゆる“韓流”への偏重は気になる)。古いものも含めてどんどんDVD化され、レンタル店に入荷されることを強く希望する。10.7.7