『マザーウォーター』

 4日前の11月1日――つまり映画の日――近所のシネコンで、『マザーウォーター』を観た。サービスデイには、シネコンではなくミニシアターの作品を観たほうがお得なのだが、『神の子はみな踊る』が六本木シネマートでやっているのを忘れていて、こちらを観てしまった。しかも夜だったので、あまりお得感はない。
 僕は原則として映画の感想などはその日のうちに書いておく主義だが、この日は疲れていて、というか、翌日のCoccoのライブのために体力を温存しておきたいと思っていて(苦笑)、書けなかった。
 結論からいえば、僕が市川実日子が出演する映画をけなすはずがない……ということは措いておくとしても(ほんとか?)、よくできた映画だと思う。
 京都が舞台だと聞いていたのだが、京都訛りの台詞は、僕が覚えている限りで1回しかない。つまり主な登場人物はみな、ほかの土地から移ってきた者だということがそれとなく示唆される。バー、豆腐屋、喫茶店を営む女性3人。銭湯を営む男性とその手伝いの男性。何をしているのかよくわからない、やや年かさの女性。そして誰の子がよくわからない子ども。水に深くかかわる日常と、その脇を流れる川。ストーリーらしいストーリーはほとんどない。台詞も少なく、登場人物の背景はほとんどわからない。おまけに、短いカットに慣れている昨今の観客には、やや違和感があるかもしれない長回しが続く。断片的な台詞のあいまに、登場人物が水割りをつくったり、コーヒーを淹れたりする。その過程がワンカットで流される。映画というものは、ストーリーの起承転結とカットの繰り返しがあるからこそ、観客は目の前の光景が映画であることを自覚できるのだが、この映画では、非映画的な映像技法が、おそらく意図的になされている。こういう試みは、別に『マザーウォーター』が初めてというわけではないのだが、最終的にいいものであればそれでいい。なおストーリーらしいストーリーはほとんどない、と書いてしまったが、最後には「オチ」がある。
 秀逸……なのだが、気になる点がないわけではない。それは、映画が示すメッセージの方向性が、あまりに“内向き”である、ということだ。つまり、わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない、ということが。『かもめ食堂』や『めがね』や『トイレット』が好きな観客は、きっとこの作品も気に入るだろう。しかし、そうではない人は? 同じようなことは、実は、先日絶賛した『森崎書店の日々』についてもいえる。神保町や古本に思い入れのある人は、きっとこの作品を気になるだろう。しかし、そうではない人は? 
 まあ、最近の映画は、あまりに“外向き”過ぎるというか、アホでも誰でもわかるようにつくられている作品が多く、それらにうんざりしていた僕には、『森崎書店の日々』も『マザーウォーター』も、とても爽快だったのだけどね。
 今年は邦画の年かもしれない、と思うことにしよう。


追伸;
 この映画を観て、「ありえねえよッ!」と苛立つ人もいるかもしれない。実は、僕もそう思うことがなかったわけではない。しかし、この映画が描いているのは、一種のユートピア、つまり、どこにもありえない理想郷なのではなかろうか。映画はユートピアを描くこともあれば、その逆――あるいは表裏一体?――のディストピアを描くこともある。そしてその間のどこかに位置する日常を描くこともある。この映画は、起承転結の欠如と長回しの多用により非映画的な日常感覚を実験的につくり出すと同時に、その感覚に満ちたユートピアをも、観客に体験させようとしている。ユートピアの描き方としては珍しいかもしれない。