『神の子どもたちはみな踊る』

平日とまったく同じように出かけ、御茶の水で仕事をし、夕方、六本木に移動して、シネマート六本木で『神の子どもたちはみな踊る』を観る。
いうまでもなく、もうすぐ公開の『ノルウェイの森』の“予習”として、である。
すでにレンタルのDVDで、監督つながりでトラン・アン・ユン監督の『青いパパイヤの香り』や、原作者つながりで大森一樹監督の『風の歌を聴け』を観た。前者は、美しいが退屈な映画、という印象は、同じ監督の『夏至』と同じ。その点には目をつぶるとしても、オリエンタリズム――監督はフランス在住のベトナム人。どちらも古き良きベトナムを(過剰に?)美しく描いている――が非常に気になった。後者は、大森による原作の換骨奪胎――『ピンボール』への布石まで打たれている――はなかなかだと思った。しかし村上はそれを気に入らず、『ピンボール』や『羊』の映画化を認めなかったのだろうか、と想像してしまう。
何やってんだろう、俺……。
というわけで前置きが長くなったが、映画の『神の子』は、あまり、いやまったく期待せずに観たのだが、まあまあだった。
原作はいうまでもなく、村上春樹の連作短編集の表題作。僕は震災よりもオウムを先に書いた村上を、一時期、許せずにいたのだが、この短編集を読んで、ふっと怒りが収まったことを覚えている。
それがアメリカに舞台を移して映画化されるとは……お手並み拝見、といった気持ちで観てみた。アメリカが舞台なのに、原作の台詞などは、結構、忠実に再現されていた。肝心の地震というモチーフだが、1995年の阪神淡路大震災の代わりに、その前年に起きたノースリッジ地震がわずかに示唆された。原作では、短編集に収録された作品すべてが、阪神淡路大地震の直後、地下鉄サリン事件の直前を舞台としているが、この映画の舞台は、もう少し最近が設定されているようだ。
やや気になったのは、またしても、オリエンタリズムである。主人公の名前が「ケンゴ」というので、日系人かと思ったら、コリアタウンに住んでいるところをみると、韓国系? せっかく舞台をアメリカに移したんだったら、中途半端にアジアっぽさを残す必要などなかったのではなかろうか。
しかし、罵りたくなるほど悪い作品でもなかった。
僕としては、同じ短編集の『蜂蜜パイ』も映画化してほしい。
しかし、直近の問題は『ノルウェイの森』である。どうなることやら。そして誰が、いつ、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』など、残りの村上作品を映画化するか。不安でもあり、楽しみでもある。

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

追伸;
原作でも映画でも、この作品の主人公は、父親がいったい誰なのか、強くこだわる。両者に共通する設定は、不謹慎だが、AID(非配偶者間人工授精)で生まれた子どもたちの主張を想起させた。