メディア・リテラシー考

ある事情で「メディア・リテラシー」あるいは「科学リテラシー」、「情報リテラシー」について考えさせられています。
手元にある『広辞苑第五版』では「メディア・リテラシー」という項目はありません。もちろん「科学リテラシー」や「情報リテラシー」という項目もありません。しかし「リテラシー」という項目はあります。そこには「読み書きの能力。識字。転じて、ある分野に関する知識・能力」とあり、その例として「コンピューターリテラシー」が挙げられています。いまだったら「ITリテラシー」と呼ばれるものかもしれません。あえて言い替えれば「情報技術リテラシー」となるでしょう。「リテラシー」が単に「読む能力」だけでなく「書く能力」も含むもののならば、「情報技術リテラシー」とは、情報技術を使って、情報を得るだけでなく、書く、あるいは発信する能力も含むといういうことです。
一方、英語を仕事にする人の間で定評がある英和辞書『リーダーズ英和辞典』には「media literacy」という項目があります。

メディアリテラシー《さまざまな形態のメディア情報を、批判的な主体性をもって解読できること》」。

後述するように「批判的な」が入っていることがポイントかと思われます。しかしこの定義は「解読」つまり「読むこと」のみで、「発信」つまり「書くこと」が含まれていません。
また、アメリカのメディア教育研究者であるジェーン・タリムという人は「メディア・リテラシー」を次のように定義しています。

メディア・リテラシーとは、日々、私たちに情報をもたらし、私たちを楽しませ、私たちに売られるメッセージをより分け、分析する能力のことです。すべてのメディアに対する批判的思考スキルをもたらす能力のことです。

http://bit.ly/lvPBDo

ここで僕が参照したのは、カナダの「メディア・アウェアネス・ネットワーク」という教育関係のNPOのウェブサイトですが、誰でも編集することのできるウェブ上の百科事典『ウィキペディア』の「media literacy」の項目(英語版)にも、やや言葉遣いがまどろっこしいのですが、ほぼ同様の定義が書かれています。

メディア・リテラシーとは、人々がさまざまなモード、ジャンル、形式のメディアにおけるメッセージを分析し、評価し、つくり出す能力の範囲である。(2011年6月9日閲覧)

以上のようにいくつかの定義を参照してみると、メディア・リテラシーとは、単に情報やメッセージを読む、受け取る、解読するだけでなく、それを「批判的に」吟味し、そのうえで自ら情報やメッセージを書き、発信する、そのような総合的な能力のことを意味することがうかがえます。
情報リテラシー」という言葉も散見しますが、それも「メディア・リテラシー」とほぼ同義の言葉だと考えてよいでしょう。
いずれにせよ、重要なのは「critical」という言葉とその含意です。この言葉は「批判的」あるいは「批評的」と訳されることが多いようです。僕自身は「得た情報を鵜呑みにしない」という意味で「批判的」と訳すことが多いです。
しかしながら、早稲田大学で科学ジャーナリズム教育に携わっている田中幹人先生からは「とりあえず反対すること」と勘違いされる可能性がある、とのご指摘がありました(6月8日夜、twitterにて)。ならば「批評的」ではどうだろう、と提案してみたところ、「安全地帯から好き勝手に言うこと」と勘違いされる可能性がある、とも指摘されました。
田中先生は、暫定的に「批判的/批評的」と表現することもあるそうです。残念ながら、ちょっと言いにくいのが難です。ようするに答えは出なかったのですが、「情報を鵜呑みにせずに吟味すること」が重要であることには合意しました。
凡庸と言えば凡庸なのですが、それこそ「メディア・リテラシー」というものの内実をcriticalに/批判的に/批評的に、煎じ詰めていくと、とりあえずはそのようなことがポイントになるわけです。


ところで3.11以来、ネット上に飛び交う言葉のなかで、非常に気になるものがいくつかあります。
原発事故や放射線の影響を重視する人は、そうでない人たちから「デマゴーグ」と呼ばれることがあるようです。あるいは「危険厨」と。そしてその言説は「危険デマ」といわれるようです。その逆もあるようです。原発事故や放射線の影響を軽視(?)する人は、そうでない人たち(重視する人たち)から「御用学者」と呼ばれているようです(学者の場合。ジャーナリストだったら「御用ジャーナリスト」と呼ばれているのかもしれません)。あるいは「安全厨」と。ししてその言説は「安全デマ」といわれるようです。
僕自身はこうした二項対立を煽るような、相手に対するレッテル貼りこそが、最もclitical/批判的/批評的でない態度であり、何も生み出さない、非建設的な行為であると考えています。実際のところ、そのような言葉を使って相手もしくは誰かを罵ったとしたら、罵られた人はそれ以上の対話あるいは思考をやめてしまうのが普通でしょう。それは双方にとって損なことです。何らかの解、あるいはそのヒントが生まれるチャンスを失ってしまうのですから。誰かの言説に疑念を抱いたら、その根拠となる事実や論理を探る、あるいは尋ねることが先決でしょう。
誰かがツイートしていたように、「デマゴーグ」という言説と「御用学者」という言説は、相手の見解の内実を検証する前にレッテルを貼ることによって、自分も思考停止し、相手も対話を避けるようになってしまうという意味では、構造的にまったく同じことなのです。
「デマ」という言葉も気になります。『広辞苑』によれば、デマとは「事実に反する先導的な宣伝。悪宣伝」あるいは「根拠のない噂話。流言蜚語」とあります。なるほどそれならば、僕もデマはごめんです。デマらしき言説を見聞きしたら、(1)スルーするか、(2)「ソース(情報源)は?」と問うか、(3)自らソースを示して反証するか、そのいずれかを行うべきでしょう。僕は(1)が多いのですが、有害だと思われる場合には、(2)か(3)をすべきでしょう。ただ単に「お前(あいつ)の言っていることはデマだ!」というだけでは、あまりほめられるべき態度ではありません。デマに対する「それはデマだ!」という言説も、論拠(事実となるソースや論理)が伴わなければ、デマ自体とそれほど変わらないでしょう。その点、評論家の荻上チキ氏の仕事、「荻上式BLOG」およびそれを再構成した単行本『検証 東日本震災の流言・デマ』(光文社新書)は、有益なものであり、一読をおすすめします。

検証 東日本大震災の流言・デマ (光文社新書)

検証 東日本大震災の流言・デマ (光文社新書)


ところで僕が以上のように述べてきたことは、ようするに、「みなさん、メディア・(あるいは科学)リテラシーを高めましょう」ということなのでしょうか? そのように見える(読まれた)かもしれません。しかし僕的には、その自問への答えはイエスでもあり、ノーでもあります。
ある条件に限っては、イエス、といってもいいかもしれません。僕を含むわれわれ出版人は、情報を扱うプロのはずです。われわれライターや編集者は、情報を収集し、分析し、加工し、そして読者に伝えます。それができなくて、出版人といえるでしょうか? クローズドな場所で起きたことをここで書くつもりはありませんが、自分を取り巻く状況をめぐる情報を収集し(つまり取材し)、分析し、それを行動に役立てられない者が出版のプロといえるでしょうか? 
しかしながら、別の条件では、僕の自問への答えはノーとなるかもしれません。いや、イエスともノートもいえない微妙なものとなるはずです。
メディア・リテラシー科学リテラシー情報リテラシー……いずれも、確かにあるには越したことのないものです。僕は教員として、学生たちにそれらを身につけることを強制、いや指導しています。
しかし3.11以降の状況はどうでしょうか? われわれは毎日のように「放射能を正しく恐れましょう」といわれ続けています。「正しく恐れる」は、なかば流行語のようになっています。検索すれば、「正しく恐れる」ことを読者に求める記事が山のように見つかります。この類の言説は、おそらく元を辿れば、物理学者・寺田寅彦のエッセイ「小爆発二件」における

ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい

http://bit.ly/eb4RSL

という箴言に由来するものでしょう 。
ここ3カ月のこうした「正しく恐れる」言説の大部分は、放射能は思われているほど怖くないですよ、というメッセージを含むものです。しかし寺田のエッセイは、読めばすぐにわかるのですが、ほんとは怖くないものを怖いと間違えることだけでなく、ほんとは怖いものを怖くないと間違えることにも警鐘を鳴らしているのです。
寺田の真意はともかくとしても、この両者は、同じ間違いであるとしてもしても、その潜在的影響が異なることはすぐにわかるでしょう。ほんとは怖いか怖くないかわからないものを、あえて怖いと仮定して対策を取ることを一般に「予防原則」といいます。
不幸にも、ほんとは怖いものを怖くないと(おそらく個々人というよりは政府などが)間違えてしまい、そのリスクが万人に降りかかるとき、その怖さ、いや現実の被害は、万人に等しくおよぶわけではなありません。昨日書いたように、その分布は、社会的要因に強く左右されるのです。


メディア・リテラシーの話から脱線してしまいました。この3か月間の「正しく怖がる」ことを求める雪崩のようなメッセージは、ようするに、メディア・リテラシーあるいは科学リテラシーを身につけましょう、ということです。僕自身、いまとなっては放射線に関する基礎的な知識を持ち、情報を読み解き、その結果を個々人の行動方針に役立てることは、多くの人に必要なことになっていると思います。
しかし……その状況って異常ではありませんか? すべての人に「正しく恐れる」ことを強制する社会っておかしくありませんか? 「正しく恐れる」ことができずに、必要以上に翻弄されてしまったり、現実の健康被害を受けてしまったりしたら、それは個々人が「正しく恐れる」ことがなかったからであり、「自己責任」とみなされてしまうのでしょうか? そんな社会は病んでいるでしょう。