「断種、強制中絶は決して答えではない」

以下、旧聞に属することですが、「JCcast」で話題提供しようと思っているので、とりいそぎ、訳文をまとめておきます。後ほど確認・修正・加筆します。

アーサー・カプラン「断種、強制中絶は決して答えではない、と生命倫理学者」
VITALS on msnbc.com 2012年1月29日


 マリー・モーとしてだけ知られる、マサチューセッツの32歳の妊婦が、中絶と断種をめぐる激論の中心にいる。あまりに複雑なケースであり、生命倫理学の全体コースを教えるのに使えるだろう。
 モーは深刻な統合失調症と双極性気分障害に苦しんでいる。彼女は以前にも妊娠したことがある。最初のときには中絶した。2回目の妊娠で男の子が生まれ、いまモーの両親に育てられている。中絶と息子の誕生との間に、彼女は、法廷文書が「精神病の勃発(psychotic break)」と呼ぶものに苦しみ、入院しなければならなかった。彼女は現在、薬を飲んでいるが、彼女の疾患があまりに深刻で、まだ現実にかかわることができない。
 先の〔2011年〕12月における法廷でのヒアリングで、同州の精神保健部は彼女の両親に彼女の保護者(guardians)となるよう要請した。両親は妊娠2カ月の娘が中絶することを希望した。そのヒアリングにおいて、医師たちは、彼女の飲んでいる薬が胎児の健康を脅かしていると証言した。また彼らは、薬をやめることによって、彼女は「より深い狂気」へと向かう深刻なリスクにさらされる、と言った。
 判事〔ノーフォークの遺言検認判事クリスティナ・L・ハームズ〕は中絶の主張を説得力あるものと考えた。彼女〔判事〕はモーの両親に保護者になることを命じ、両親は必要なことはどんなこともできる、とした。娘を「策略によって、おだてて、誘惑して」中絶が行われうる病院へ連れて行くために。判事は、モーは中絶の後、断種されるべきだと付け加えた。同じ状況が二度とないように、と。
 この判決は即座に上訴された。現在、マサチューセッツの控訴裁判所は、一審判決を覆し、断種は提案されていない。控訴裁判所は、もしモーが法的能力を有しているならば、彼女は中絶を望まないだろう、彼女はそれを望んでいないと言っているのだから、と述べた。そのため中絶も準備されていない。
 控訴裁判所の決定は正しいのか? 私はそう思う。しかし、悪い理由によって、である。
 ちょうどいま、ノースカロライナ州は、1960年代と1970年代に同意なく断種された人々に膨大な金を支出した。断種は、アメリカでもほかの国でも、何度も何度も濫用された。どんな克服もない。モーを助けるためになされる必要のあることがどんなものであれ、彼女を断種することではない。
 もし彼女が断種されなければ、モーのような深刻な精神疾患患者はセックスするな、といわれるのだろうか? 裁判所はその主題には手を出さなかった。しかしそれは重要な倫理的疑問だ。
 モーがセックスすることを防ぐのはおそらく不可能だ。しかし彼女の精神状態を考えれば、同意能力はほとんどない。私は、彼女がいくらか精神疾患から回復するまで、そしてある程度回復しない限り、彼女には永久的な避妊(birth control)が必要だと思う。回復してから、回復してから初めて、彼女は自由に子どもをもつべきである。
 中絶についてはどうだろう? 彼女は同意できない。マサチューセッツの裁判所は、もし彼女が法的能力を有していたら、彼女が望むであろうことを、それらを示唆する陳述の一部を使って、推測しようとしている。それは望みのない探究である。モーはわれわれに何かを語るにはあまりに病んでいる。そして判事の努力にもかかわらず、彼女の妊娠について彼女の望みを知ろうとするふりをすることは、無意味なことだ。
 彼女の貧しい両親は彼女について心配したくなくて、彼女の子どもの1人を育てており、もう1人に直面した。しかし両親の利害のすべてが、起こりうることを決める権限を彼らから奪った。
 自律性が消え去り、家族が相反しているとき、われわれに残されていることは、モーと胎児のためにベストを尽くすことである。私は、中絶がその原則に見合うとは思わない。
 もしモーの薬が胎児をリスクにさらすならば、用量を少なくすべきである。もしモー自身がさらに悪くなるのならば、やめよう。もしモーがその子どもを育てられなくて、彼女も両親もそれをできないならば、養子縁組がその後の最善の道である。
 マリー・モーがまた妊娠することを許すのは得策ではない。彼女がなされるべきことをわれわれに語れないとき、胎児の生命を終わらせることは、胎児にとって得策ではない。モーのケースにおいては、考えるべきことがたくさんあるが、強制的な断種や同意なき中絶は、そうした考えるべきことには含まれない。
 マリー・モーのケースについてどう思いますか?

http://vitals.msnbc.msn.com/_news/2012/01/19/10194487-sterilization-forced-abortion-are-never-the-answer-bioethicist-says

僕はこの記事の見出しを初めて読んだとき、アーサー・カプランがノースカロライナ州優生学プログラムの補償問題についてコメントしたのだと思いました。ところが読み始めたら、最近の出来事だとわかって、ぎょっとしました。アメリカって極端ですね。意見も実例も…。
とりあえず、妊娠は1人ではできないはずなので、性交渉の相手の影がまったくないことが気になります。
この事例を参考にして、考えるべきことはたくさんありそうです。
ずいぶん昔のことになりますが、武田徹さんはハンセン病とその隔離政策を論じた『「隔離」という病い』(講談社選書メチエ、中公文庫)で、感染力の強い感染症にかかった患者を強制隔離することは可能か、可能だとしたらそれが許される条件は何かという難題に対して、政治哲学者ロバート・ノージックの議論を援用しながら、医療ケアなどを十分に実施することによって、患者にとって隔離そのことが最善の条件になること、そして患者に隔離への合意を導けるほどの補償をすること、を提起しました。
僕はこの理論が遺伝病にも適用できるのかどうか疑問に思ってきました。遺伝病は感染症と同じく、他者に伝わる病気です。
つまり遺伝学的な隔離は正当化されうるのか、されうるとしたら、その条件は何か、という疑問です。
カプランの論考は、僕のそうした疑問に直接答えるものではありませんが、しかしヒントにはなります。カプランは中絶や断種には否定的ですが、養子縁組と避妊を推奨しているのです。その「強制」を認めているかどうかは微妙なのですが…。
また、原発事故を受けて、放射線の影響が議論されていますが、その一つに遺伝的影響があります。そもそも放射線の影響は、遺伝学者マラーがショウジョウバエを使った実験で、次世代に影響が出ることが観察されたことから懸念されるようになったのです。つまりこれから生まれてくる子どもの健康への影響です。しかし広島・長崎では確認されていない、という意見が多いようです。チェルノブイリ事故でもほぼ同様なのですが、遺伝子や染色体に変異が見られた、という報告も数件あるようです。しかし周知の通り遺伝子型と表現型は別です。また、仮に表現型に影響したとしても、それを「異常」とみなすかどうかは、社会の側の価値観しだいでしょう。では、ある程度以上の放射線被曝を受けた人に結婚や出産を禁じたり、出生前診断を義務づけることは正当化できるのでしょうか?
いずれにせよ、優生学あるいはそれに類するものって、ほんとに手強いと思います。この事例は現在進行形の話なのです。


なお、いつも参照しているブログ「Ashley事件から生命倫理を考える」が、すでにこの件を紹介しています。ご参考までに。


精神障害者への強制中絶・不妊手術命令を、上訴裁判所が破棄(米)
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64660912.html