『KOTOKO』

本日は国士舘大学21世紀アジア学部での「生命科学と21世紀社会」第1回だった。曜日を変えたら受講者が激増した。教室も巨大な教室に変更された。私語をコントロールできるかどうかが懸念だったのだが、懸念通りになってしまった…。
今回は今後の講義の予定を説明した後、iPS細胞について少しだけ解説した。例年のようにリアクションペーパーを書かせたのだが、反応は残念ながらいまひとつ…。受講者が20〜30人だったら、1人ひとりの学生さんにていねいに対応すれば、効果があることはわかっているのだが、多人数だとそれは困難かもしれない。しかし教育にあせりは禁物。それにこれまでの経験では、分母が大きいと、いい反応する学生さんも出てくることもあるはずだ。長い目で見よう。


非常勤の後、テアトル新宿で、遅まきながら『KOTOKO』を観てきた。いわずと知れたCoccoの初主演(ドキュメンタリーを除く)映画にして、塚本晋也監督の新作。リストカットするシングルマザーが主人公、と知った時点で、「それって本人役ってこと?」と思ったのは、たぶん僕だけではないだろう。
主人公の琴子という女性は、1人で息子を育てているが、幻覚に悩み、なかでも子どもを傷つけるものを恐れ、しばしば暴力をふるってしまう。同時にその暴力は自分自身にも向かい、リストカットを繰り返す。リストカットするたびに、身体が「生きろ」という、と琴子はいう。しかしながら幼児虐待を疑われ、息子は、沖縄の姉に預けられることになる。そんなときに琴子が1人で口ずさむ歌を聞いたという男性(小説家)が声をかけてくる。彼は彼女にプロポーズまでする。しかし彼は……というのが、この映画のあらすじ。
Coccoは主演だけでなく、原案・音楽・美術も担当している。塚本は監督だけでなく、脚本と撮影を手がけ、そしてその小説家役で出演までしている。シンガーが「ほぼ本人」役で出演する映画として、『珈琲時光』(一青窈)や『タイヨウのうた』(YUI)があるが、コンセプト的には、当然ながらそれらを彷彿とさせる映画である。僕は、Coccoのファンだという塚本監督が彼女にオファーしたのかと思ったが、パンフレットなどによれば、Coccoのほうがオファーしたらしい。しかしクランクイン直前に震災が発生。だが塚本もCoccoも、震災の渦中での撮影を決意。おそらく、そのことは作品に色濃く反映している。琴子は我が子を愛するあまり、恐怖におびえ、他人に暴力までふるってしまうが、どこかで見た光景ではなかろうか? 
しかし『KOTOKO』の世界では震災は起きていないようだ。パンフレットのなかで宮台真司氏が近いことを指摘していたように思うが、恐怖と地獄は、震災がなくても存在する、ということをこの映画は示唆していたようにも思える。それが見える琴子は狂っておらず、それが3.11まで見えなかった我々のほうが狂っているのでは?
僕としては、もう少し救済というか、再生のようなものを見せてほしかったが、あの終わり方でも、せいっぱいの救済・再生だったのかもしれない。映画的というよりは、現実的なラストに見えた…。
映画全体は、心に変調をきたしたKOTOKOの視点から描かれるので、幻想的な雰囲気をかもしているのだが、同時に妙なリアルさにも満ちている。また女が消えてしまう物語はいくつかあるが、男が消えてしまう物語は珍しいかもしれない。いうまでもなく、僕はCoccoのファンなので、少しひいき目で観てしまった。Coccoにはあまり興味のない人はこの映画をどう観るのだろうかちょっと気になる。


コトコノコ

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