小保方博士論文と「先行研究のレビュー」をめぐって

ごぶさたしています、こちらでは…。
昨日、早稲田大学の、正確には早稲田大学に提出された小保方晴子氏の博士論文に対する調査委員会の記者会見を取材してきました。
今回は諸事情で記事を書きませんので、エッセイのようなものをここで書いてみます。
今回の発表にもいろいろなポイントがあるのですが、僕がとりわけ、小保方氏が博士論文の「序章」をコピペですませてしまい、調査委員会がそれを不正とみなしながらも、重要な部分ではないことを理由に学位の取り消しには当たらない、とみなしたことに不満を抱くことには、何層かの理由があります。
まず一般的にいって、科学(学問)は、過去の研究の積み重ねのうえに初めて成り立つものです。これが前提です。論文の序章では、通常、先行研究のレビューがなされます。つまり先行研究では何が明らかにされてきたのか、逆に言えば、何が明らかにされていないかを確認します。その明らかになっていないことを、自分は明らかにするのだ、と宣言をするのです。たとえば実験なら、自分の実験の歴史的重要性を伝えるためには、きわめて重要な過程です。決して手抜きなどできないはずです。
そこをコピペですませてしまうということは、先達たちへの冒涜となることはもちろんですが、自分が自分の研究の歴史的重要性を理解していない、もしくはそれを示すことを怠っていると理解せざるを得ません。
蛇足ながら、以上のことは文系と理系でとくに違いはないはずです。学問一般に通じることです。
にもかかわらず、調査委員会は、小保方氏による盗用を「著作権侵害行為及び創作者誤認惹起行為」と認めたものの、「上記問題箇所は学位授与へ一定の影響を与えているものの、重要な影響を与えたとはいえないため、因果関係がない」とみなしてしまいました。先行研究のレビューは手抜きしてもいい、といっているようなものです。
そして僕がこの件にこだわることには、個人的な理由があります。ご存知の方もいると思いますが、僕は博士号を持っています。もちろん生命科学でも医学でもなく、社会学、つまり文系の博士です。前述したように、先行研究のレビューの重要性については、理系も文系も関係ありません。
僕が2009年の6月に博士号請求論文の第一稿を提出した後、指導教官や主査、副査の先生方から、何度もしつこくダメだしをされたことは、「先行研究をレビューせよ」、もっといえば「先行研究を批判せよ」ということでした。
指導教官は加藤秀一先生(性現象論)、主査は柘植あづみ先生(医療人類学)、副査は佐藤正晴先生(メディア論)と林真理さん(科学史、外部委員。なお僕は林さんと「先生」付けで呼ばないことを固く約束しています)でした。とくに柘植先生からは厳しく何度も何度も厳しく叱られました。
考えてみれば、当たり前です。理系であろうが文系であろうが、近い分野の研究の蓄積を前提とし、何が明らかになっていて、何が明らかにされていないかをはっきりとさせ、その過程で先行研究の限界を明示し、それを乗り越えるために何をすればよいかと考え、そしてそれを実践するのが研究というものでしょう。僕は、たいへん恥ずかしいことなのですが、そのことを博士課程の4年になるまでしっかりと理解していませんでした。でも、何度かダメだしされているうちに遅まきながらなんとか理解し、第何稿かで、先行研究のレビューとその限界の指摘、ややおおげさにいえば、先行研究の批判を書き加えました。論文の中核も、それに応じたものになるよう加筆・修正しました。すると、論文はするっと査読(含む公聴会)を通りました。
「するっと」は言い過ぎですね(笑)。公聴会でも、それまでの審査会と同じくボコボコに批判されまくったのですが(汗)、とにかくその批判に応じた修正をしたら、最終的な審査を通りました。2010年3月のことです。
ところで、僕が批判した先行研究とは誰の研究だったのでしょうか? それらはほかならぬ、加藤秀一先生、柘植あづみ先生、林真理さん、美馬達哉さんらの緒論でした。ようするに、僕は査読者4人のうち3人を、先行研究のレビューにおいて血祭りにした、いや失礼、批判させていただいたのです。まあ、「批判」とはいっても、「誰々はAを論じているが、Bを論じていない」というようなものだったので、よくいって「限界の指摘」かもしれませんが(苦笑)。その程度のものではありましたが、査読者の先生方は、その拙い批判とその克服を認めてくれたのでしょう。その結果、論文を受理してもらえたのです。議論のスジ自体は、第1稿とそんなに変わっていません。
先行研究の批判とその克服、という、いわば形式というかスタイルのようなものを整えることが僕には必要だったようで、査読者の先生方はそれを粘り強く指摘してくださったのです。
よく考えれば、当たり前です。既存の議論でまだ答えが出ていないことを見つけること、既存の議論よりもほんの少しでも先に進むこと、それを目指さなければ、研究なんて行う意味がありません。
そして加藤秀一先生は、僕と同じく、学術雑誌で規定された形式に乗っ取った文章を書くことはお嫌いなようですが、形式はともかくとして、既存の議論のうち最も高レベルなものを対象とし、その最も中心的な議論の限界をあぶりだして批判する、ということを、最も的確に実践できている論客だと僕は認識しています。少なくとも、僕が関心を持つ分野を論じている人では、加藤先生に並ぶ人はあまりいないと思います。だからこそ僕は、自分の指導教官になってもらいたくて加藤先生の研究室のドアを叩いたのでした。2003年のことだったでしょうか。その加藤イズムを、僕は博士課程4年になるまで、体得はおろか理解もできていなかったのは、いま思うと恥ずかしい限りです。
ちなみに僕の博士論文のテーマは、簡単にいうと、幹細胞研究をめぐる論争史の分析です。その過程で、フーコーなどの生権力・生政治論を援用しています。いまのところ公表されていませんが、国立国会図書館などに収録されています。
その延長上にあるテキストを最近書きました。いうまでもなく、STAP細胞事件について書いたものです。『現代思想』の8月号に載ります。amazonでは予約が始まっているようです。もしよければ、ご覧いただけたら幸いです。