福島市のユースホステル「ATOMA」

11月16日と17日、福島県に出かけて来た。
16日には、ビジネスホテルが見つからなかったので、ネットで見つけたユースホステル「ATOMA」に宿泊した。そこはユースとは思えない、ペンションみたいなシャレオツな施設だった。
ATOMAには東北で三番目に大きいという天体望遠鏡がある。オーナーさんがアマチュア天文家らしく、この天体望遠鏡も30年前、ハレー彗星を観察するために仲間たちで手作りしたらしい。宿泊者は僕以外にも数名いたが、この夜、オーナーの呼びかけで天体観察会に参加したのは僕だけだった。オーナーさんのガイドで、月とプレアデス星団木星(とその衛星)を観察した。
望遠鏡の構造は結構シンプルで、直径52センチの凹状の鏡に天体を写し、それを2つの鏡で反射させ、それを取り外し可能なレンズで覗く。「いくらかかりましたか?」と聞いてみたところ、「気合いだけでつくったので、あまりかかっていないんじゃないかな」とのお返事。
この日は晴れてはいたが、月が大きかったので星は見えにくいとのことだったが、それでも関東に比べたら、見える星の数は圧倒的に多いだろう。ビジネスホテルが見つからなかったので、偶然見つけた宿ではあったが、面白いものを見せてもらったと思う。
また泊まりたい…と言いたいところだが、交通の便があまりよくないので、あえてここを選ぶメリットはあまりないかもしれない。天文マニアでない限り…。



「原子力映画解体」のためのメモ:『イエロー・ケーキ』再訪

本日も引き続き、10月6日の「原子力映画解体」のためのメモをさらします。今回が最後です。


ここ数日、再編集中だったYouTube版、再アップされたようです。映画みたいなクレジットが!

本日は再び『イエロー・ケーキ』を論じます。(当日は『イエロー・ケーキ』を再訪する前に、『第4の革命』と『チェーン・リアクション』も取り上げたのですが、僕はメモを用意できませんでした。)


          *


『イエロー・ケーキ』の39分あたりで以下のようなナレーション(字幕)があります。

ヴィスムートでは東独独自の健康診断が行われた
鉱員たちは自分たちが安全だと思っていた
だが普通の採鉱とは
違った危険があることはまったく知らなかった
ヴィスムート閉鎖後17年目に
ドイツ放射線防護庁は
ウラン鉱員に大規模な健康調査を行なった
結果は暗澹たるものだった
5万千人のヴィスムート鉱員の肺ガン発症リスクは
従来考えられた25年よりずっと長いと判明した

5万1000人を対象とした調査が行われたことはわかるのですが、リスク=危害の発生可能性、いいかえれば確率は、通常、長い/短いではなく、高い/低い、と表現されます。 高リスクの状態である期間が長い、という意味だろうか。もしそうだとしても、いまいちピンときません。  
一般論として、字幕というものは、実際に話されていることの6〜7割ぐらいしか訳されず、要約に近くなる場合もあると思われます。そうした問題なのでしょうか。


−−と、当日は字幕の翻訳者である渋谷哲也先生に直接聞いてみたのですが、発がん可能性がある期間が、従来考えられていたよりも長いことがわかった、という意味だとのこと。いまいち釈然としませんでした。
しかしながら、繰り返しますが、この映画はウラン採掘という事例によって、原子力をめぐる南北問題、植民地問題の現場を生々しく描いているという意味で、やはり観る価値のある作品だと思います。

Risk: A Sociological Theory (Communication and Social Order)

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「原子力映画解体」のためのメモ:『100,000万年後の安全』

今日も引き続き、「原子力映画解体」のためのメモ書きをさらします。
今回は『100,000万年後の安全』というドキュメンタリー映画です。『イエロー・ケーキ』が原発の始まり(=燃料)を描いた映画であるとするならば、この作品とか『アンダー・コントロール』は原発の終わり(廃棄物と廃炉)を描いた作品でしょう。
          *

100,000年後の安全 2010 デンマーク(合作) http://p.tl/rfPu


(2011年7月9日付ブログを編集)


2011年7月9日、アップリンクXで『100,000年後の安全』を観た。フィンランドの高レベル放射性廃棄物処分場を取材したドキュメンタリーである。実は、観るまでフランスの映画だと勘違いしていた。フィンランドの映画だが、インタビューのほとんどは英語でなされている。
舞台はフィンランドにある「オンカロ」という高レベル放射性廃棄物処分場。地下500メートルまで掘られた、洞窟のような、要塞のような施設が建設中であり、フィンランド各地から運ばれた放射性廃棄物が置かれ、2100年には封鎖するという。
タイトルからして自明なのだが、カメラは、同施設の責任者や政府関係者に対して、10万年後の人々にここが危険な場所であることを知らせるためにどうしたらいいか、をしつように問い続ける。ある者は何も記さず、忘れ去られるべきだと言い、ある者はあらゆる言語や記号を使って、危険であることを知らせるべきだと言う。ある政府の委員会の委員は、私たちがピラミッドが何のためのものかわからないように、未来の人はこの施設が何のためのものがわからないだろう、と言う。
この議論はリスク社会論でよく知られる社会学者ウルリヒ・ベックが、2008年7月17日付の英紙『ガーディアン』に寄稿した論考を彷彿とさせる。

2年前、アメリカ議会は、アメリカにおける核廃棄物投棄によって引き起こされる脅威について、今後1万年間にわたる警告を可能にする言語やシンボルを開発するための専門家委員会を設立した。解決されるべき課題は次のようなものであった。いまから何千年か後、未来の世代にメッセージを送るためにコンセプトやシンボルをいかにデザインするべきか?
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/jul/17/nuclearpower.climatechange

日本では、原発はトイレのないマンションとよくいわれるが、ベックは、原発は滑走路のない飛行機である、と言う。どちらも廃棄物処分の問題を意味している。

彼ら〔国家など原子力を推進する「アクター」たち〕は人々に飛行機に乗り込むよう急かしているのだが、滑走路がまだつくられていないのだ。

100,000年後の安全』は、オンカロ処分場の様子を淡々と見せ、シンプルな質問を関係者に問いかけることで、同じ問題を提起する。秀逸。

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アンダー・コントロール [DVD]

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危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

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「原子力映画解体」のためのメモ:『風の谷のナウシカ』

引き続き、「原子力映画解体」のためのメモ書きをさらします。
今日は『風の谷のナウシカ』です。拙著からの抜粋ですが、だいぶ手を入れています。
この作品についても、原作、いやコミック版も含めて、まだまだ語るべきことがあるような気がします。


          *


風の谷のナウシカ 1984 日本 http://p.tl/7-ZS


(拙著『バイオ化する社会』(青土社)からの抜粋を大幅に編集)


一九八四年三月一一日に公開された『風の谷のナウシカ』(宮崎駿監督)も示唆に富む作品です。
物語の舞台ははるか未来。「火の七日間戦争」と呼ばれる大規模戦争によって文明世界がいちど滅んだ後、地球の大半は「瘴気」と呼ばれる有毒物質を出す植物と、扱いがやっかいな「蟲」と呼ばれる動物が支配する「腐海」に覆われています。その戦争を生き延びた人類は、瘴気と蟲に脅かされつつ、ほそぼそと生き延びています。
主人公ナウシカが住む「風の谷」は、海からの風によって、腐海の「瘴気」と呼ばれる有毒ガスの影響がない場所で、人々は風力発電を思わせる風車を使って平和に暮らしています。風の谷は、いわば文明崩壊後に奇跡的に存在するユートピアでしょう。その風の谷は、世界を滅ぼして自分も滅んだはずの「巨神兵」を復活させ、腐海を焼き払って文明を復興させようとするペジテと、その巨神兵を奪って自らの覇権を拡大したい軍事国家トルメキアの抗争にまきこまれます。作品を通じて、「火」と「風」の対比が繰り返されるのですが、「火」は原子力をはじめとする科学技術、「風」は自然の比喩でしょうね。
ペジテやトルメキアは「火」すなわち巨神兵を使って腐海や蟲から人間を解放し、ユートピア建設を試みます。それに対して風の谷は「風」を使うにとどめ、腐海や蟲とは共生共存をはかろうとします。ここでは、大きく分けて二つのユートピア観が衝突しているのです。すなわち自然の征服によって成立するユートピアか、自然との共存によって成立するユートピアか、という違いがあります。
「火の七日間戦争」は、どうしても核戦争をイメージさせるものです。映画のラストででは、人類のほとんどを死滅させた「巨神兵」がその戦闘能力を発揮するのですが、その口からビーム砲が放たれた後に生じるキノコ雲は、核爆弾のそれを彷彿とさせます。巨神兵自体はバイオテクノロジーによって生み出された戦闘用ロボットのようなものと推察されるので、どちらかというと、生物兵器というべきものでしょう。
僕はここ数年、「核時代」という言葉を、原子核に干渉する原子力だけでなく、細胞核に干渉するバイオテクノロジーを駆使する時代、という二重の意味で使っていますが、巨神兵はその双方を想起させるものです。
この映画を3.11後に観て注目に値するのは、登場人物たちが巨神兵の復活について、動き出したら後戻りはできない、という意味のことをしばしば口にすることです。それはどう観ても原発を思わせます。ついでながら腐海に飲み込まれた街、蟲の大群に襲われた街は、東日本大震災の被災地を連想させます。実際、映画の最後で風の谷も王蟲の大群に襲われそうになるのですが、集落の指導者たちは人々に高台に逃げるよう呼びかけたりするのです。
この映画は、一般的には「風」、すなわち自然との共存によって成立するユートピアの建設を主張する「エコロジー映画」として受容されているように思われますが、ことはそれほど簡単ではないでしょう。昔話として、人が腐海を焼き払おうとするたびに、大蟲の大群が街を滅ぼしたことが伝えられているのですが、物語の終盤では、実際に大蟲の大群が風の谷を襲います。村人たちは高台に避難するのですが、その様子は、東日本大震災津波を想起させます。つまり少なくとも風の谷の人々は、自然の恵みだけでなく、怖さをも知っているのです。それに風の谷の人々も、メーヴェガンシップといったハイテク飛行装置を使いますし、風車もまたテクノロジーです。
風の谷のナウシカ』は、ある種類のユートピアのみを賛美しているとは言い切れない、その複雑さがその魅力にもなっていると思います。ちなみに原作、というか正確には映画発表後にも連載が続いたマンガ版では、ナウシカを含む登場人物や共同体が、多様で複雑なユートピア観をぶつけ合って、映画とはまた別の味わいがある作品となっています。
僕としては、この作品がほのめかしているように、ある1つのユートピア観を主張し、それ以外のユートピア観を否定するのではなく、複数のユートピア観の共存を認めることにより、ユートピアが必然的にその裏側に持つディストピア的側面を飼いならして無力化できる可能性があるのではないか、と思いますが、みなさんはいかがでしょうか? 

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風の谷のナウシカ 全7巻箱入りセット「トルメキア戦役バージョン」

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ナウシカ解読―ユートピアの臨界

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「隔離」という病い―近代日本の医療空間 (中公文庫)

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バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体

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「原子力映画解体」のためのメモ:『黒い雨』

というわけで引き続き、「原子力映画解体」のためのメモを公開していきます。


今回は日本映画の『黒い雨』です。この映画について語るべきことはきわめて多く、このメモ書きもまだまた未整理なのですが、とにかく晒してしまいます。
なお当日は『チェルノブイリ・ハート』というドキュメンタリー映画も紹介しました。『黒い雨』と『チェルノブイリ・ハート』は、論点として共通するものがあり、両方とも同時に議論したいところです。が、当日用意したメモは、拙著『バイオ化する社会』(青土社)第7章からの抜粋なので、ここでは控えさせていただきます。ぜひ以下のメモと合わせてお読みいただければ幸いです。


          *


■ 黒い雨 1989 日本 http://p.tl/3_KI


(2012年2月10日のブログを編集)


井伏鱒二原作、今村昌平監督の『黒い雨』は “原子力映画”の古典中の古典でしょう。主演は比較的最近、若くして亡くなった、元キャンディーズ田中好子。音楽は武満徹、助監督は三池崇史
「映画で語るサイエンス」では、何度か原子力映画を特集していますが、ある時期までこの映画を取り上げませんでした。いま考えると、核戦争や原発のことばかりに気をとられていて、現実に広島に落とされた原爆のことを忘れていたのはまずかったかもしれません。
僕は2011年の6月に林衛さんと被災地に行ったとき、盛岡で泊まったのですが、盛岡の名画座で、『黒い雨』が次の週ぐらいにかかることが予告されていました。その映画館は、たぶん震災を意識して選んだのだと思います。 
僕がこの作品を初めて観たのは、恥ずかしながら震災後です。 
1945年の8月6日、ある夫婦とその姪が、広島で被曝する。夫婦は爆心地近くで スーちゃん演じる姪の矢須子は少し離れたところで、“黒い雨”を浴びます。これがこの映画のタイトルになっています。「黒い雨」というのは、原子爆弾が爆発した後、降ったとされる重油のような真っ黒な雨のことで、放射性物質を含むといわれています。だからそれを浴びると、原子爆弾の光、いわゆる“ピカ”を浴びなくても、被曝するともいわれています。いわゆる「二次被曝」ですね。 
なお「黒い雨」というのは、ほかの映画のタイトルにもなっています。いうまでもなく、リドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』です。こちらで登場人物のいう「黒い雨」は、大阪の空襲後に降ったものと説明されますが。なお偶然にも、『黒い雨』も『ブラック・レイン』も同じ1989年に公開されています。
話しを戻しましょう。子どもいない夫婦は、すでに母親のいない姪を引き取って、戦後、岡山に住むようになります。25歳になる彼女の結婚相手を探すのですが、縁談は次々と失敗します。“ピカ”を経験したということで、です。いいところまで行っても、広島で被曝したことを相手側の家族が知ると、この話はなかったことに、みたいなことが続きます。そのためおじは、医師に健康診断書を書かせたり、原爆投下当時、爆心地から離れたところにいたことを、当時の日記で証明しようとしたりします。
いまの感覚からすると、「そこまでするの?」と思わないこともないのですが、当時はそういう世相だったのでしょう。被曝者差別というものが、ほんとに根深くあったらしいことがうかがえます。 
おじとおばは、徐々に体調を崩していきます。同じように被曝した人たちも、主人公も同様です。
この映画が訴えてくるのは、いうまでもなく、核そのものの問題と、被曝にまつわる差別の問題です。とくに後者は、震災以降、福島で問題になりはじめている気配があります。
たとえば、福島産の食品が、規制値以上の放射性物質が検出されているわけでもない、きわめて低い検出限界でND、つまり検出限界以下の数値しか出ていないのに売れない、という話がありました。いわゆる風評被害ですね。少し考えればわかることですが、福島産だから危険、他県産だから安全、というのはナンセンスでしょう。 
いわゆる差別といえる話もないわけではありません。千葉県に疎開していた子どもが「放射能うつる」といわれていじめられたとか、福島出身の人が献血しようとしたら断られたとか、ちょっと不確かな話ではありますが、縁談が流れたなんてことも仄聞します。
こうした話をすると、「ひどいよね。放射能はうつるわけじゃないし、広島の被曝者ほどたくさんの放射線を浴びたわけじゃない」という人もいます。その点は僕も賛成です。しかしながら、僕はその説明の仕方には落とし穴もあると思います。
どういうことかというと、まず、放射能はうつらない、だから差別してはいけない、という説明だと、うつる病気、つまり感染症や遺伝病だったら差別してもよい、という前提があることになります。つまり強制的な隔離や断種といった社会防衛的手段も、場合によってはOK、ということになります。 
そこまで極端なことになるかな、と思う人もいるでしょうが、少なくとも論理上は、そういうことになります。
また、広島や長崎では遺伝障害は観察されていないため、放射線による次世代への影響はないって言い切っている人がいますけれどもけど、放射線の影響というのは、もともとハーマン・マラーがX線によってショウジョウバエに突然変異を誘発した実験などから始まったことも思い出すべきでしょう。マラーはこの研究によってノーベル賞を受賞しています。
また、チェルノブイリ事故では、次世代の先天障害や遺伝障害を疑わせる知見もあります。ただしゲノムレベル、つまりDNAの塩基にわずかな変異が見られたとか、ごくごく軽微なものです。
差別批判にも落とし穴があるということは『黒い雨』でもさりげなく組み込まれています。
被曝者差別によって姪が結婚できないことを嘆くおじは、いっぽうで精神疾患を差別しています。このことはここで話すとネタバレになるのでやめておきますが、ある差別に対して抵抗・異議申し立てすると、その抵抗・異議申し立てという行為そのものが別の差別を引き起こす、言い換えると、ある人々の人権を擁護しようとすると、別の人々の人権を踏みにじることがある、ということはおさえておきたいですね。
まとめなおすと、うつらないから差別はだめ、というのは二重の意味で間違いがあります。福島の放射線の状況からすれば、可能性はきわめて低いものの、少なくとも理論上は次世代に「うつる」かもしれないとはいえること、そして、うつるのだったら差別はいいのか、という意味で、です。
福島の放射線汚染は、広島や長崎、チェルノブイリに比べて大したことがない、だから差別はいけない、という考え方にも無理があります。福島でも、たとえば原子力発電所の作業員でうっかり被曝してしまった人など被曝量が比較的高い人もいるかもしれない。では、そうした人を就職や結婚において差別していいのか? いけないでしょう。
つまり、繰り返しになりますが、一つの差別を解決しようとすると、別の差別を深刻化させてしまう可能性がある、ということです。 
論理的にはそういうことになるとしますと、ではそうした差別は仕方ないことだ、と考えてよいのかというと、もちろんそうではありません。 
重要なのは、差別、つまりある人間の待遇をその属性、すなわちその人の動かしようもない特性によって決定するようなこと、そのこと自体を人類は少なくとも近代以降は、少しずつ、まだまだ不十分でありますが、捨ててきたということです。
ようするに、「属性主義」はあまりよくないことで、「能力主義」のほうがはるかにましだ、と多くの人が考えるようになったということです。もちろん、能力主義も行き過ぎは問題があると思います。(いわゆる格差など、新自由主義、いわゆるネオリベラリズムが引き起こす問題は、基本的にはそれが能力主義に基づいているからです。)それでも属性主義よりはずっとましでしょう。その属性主義がいわゆる差別の根源ともいえます。つまり、その人それぞれの能力や個性ではなく、ユダヤ人だから、黒人だから、朝鮮人だから、という理由で人々の待遇を決めるということを、そうしたら正当化できるでしょうか?
そういう考え方がどんな深刻なことを引き起こしたかというと、最終的にはアウシュビッツに行き着くわけです。 
では、実際に「うつる」病気についてはどう考えるべきなでしょうか? 差別してもOKなのでしょうか? 実際、感染症や遺伝病が存在するのは自明です。
その問いに答えるのは少し難しいです。強制的な隔離や断種といった措置は、僕としては考えるだけでも嫌ですが、まずは医療上のケアなど、本人にとって利益になることを補償としたうえで、さらにできる限りの説明をつくして、同意を取って実施する、という道筋も考えられるでしょう。少なくとも、感染症にはあるていど適用できると思います。ただしそれを遺伝病や、放射線の遺伝障害に適用できるかどうかは、いまのところ確信できません。
この問題について議論し続けることはきわめて重要だと思います。そのための素材としては『黒い雨』は最適でしょう。


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「隔離」という病い―近代日本の医療空間 (中公文庫)

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ヒバクシャ・シネマ―日本映画における広島・長崎と核のイメージ

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バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体

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「原子力映画解体」のためのメモ:『プリピャチ』

引き続き、10月6日に開催されたイベント「原子力映画解体」のためのメモを晒していきます。今日はオーストリア人の監督がチェルノブイリ事故の跡地を取材したドキュメンタリー『プリピャチ』を紹介します。この作品についても、まだまだ語ることができそうです。


当日の動画がYouTubeでも公開されました。



メモとともにご覧いただけたら幸いです。

          *


■ プリピャチ 1999 オーストリア http://p.tl/QUvl


(2011年12月8日のブログを編集)


12月7日の午後、御茶の水と水道橋の間にあるアテネ・フランセ文化センターで『プリピャチ』というドキュメンタリー映画を観る。
日本ではおそらく『いのちの食べ方』の監督として知られるニコラウス・ゲイハルター監督が、チェルノブイリ事故の後、立ち入り制限区域にある街プリピャチで、いまなお生活を続ける人々を追った作品。1999年、つまり事故から13年後、いまから12年前に公開されたものだという(日本では今回がおそらく初公開?)。
カメラはきわめて淡々と、立ち入り制限区域で暮らす人々――年老いた夫婦、技術者、ひとり暮らしの女性などの暮らしを描き、その声を伝える。ナレーションや音楽はなく、映像はモノクロ。あえてモノクロにした理由についてゲイハルター監督は「立入禁止区域が密室であると同時に不条理な構築物であり、そこでは本来の危険は不可視であることを示すため」と答えている(リーフレットより)。
見所は数多いが、僕としては、爆発事故を起こした4号炉の隣で、いまなお稼働している3号炉の内部が紹介されていることが貴重だと思った。
強い主張を持つ映画ではない。放射能の恐怖を伝え、反原発を唱える作品ではない。カメラがとらえるのは、それぞれの理由で、土地から離れずに暮らす人々の姿だけである。プリピャチは原子力発電所の労働者が暮らす街だという。その説明からは南相馬を思い出し、人気がなくて静かだが、わずかな人々が暮らしている様子からは飯舘村を思い出した。
なお僕は以前、『チェルノブイリ・ハート』というドキュメンタリー映画を批判的に紹介したことがあるが、同じ監督で同時上映された『ホワイトホース』という短編映画はいい作品だと思った。『プリチャピ』のなかには、『ホワイトホース』とよく似た雰囲気の場面がある(撮影チームとある登場人物が彼女のかつての住居に行った場面)。しかし、完成度やインパクトでは『プリチャピ』のほうが優れている。
ドイツ人が旧ソ連を取材した作品で、登場人物は当然のことながらロシア語(ウクライナ語?)を離すが、字幕も、この映画の配給に関わったドイツ映画研究家の渋谷哲也氏によるものらしい(リーフレット『『プリチャピ』鑑賞の手引き』の執筆・編集も)。秀逸。


なおプリピャチを舞台にしたフィクションの映画もあります。ミハル・ボガニム監督の『故郷よ』という映画です。そろそろDVDになっているころだと思います。


(2013年1月16日ブログを編集)


いつもの京橋テアトルで『故郷よ』(ミハル・ボガニム監督)の試写を鑑賞。タイトルの「故郷」とは、チェルノブイリの隣町プリピャチのこと。結婚したばかりなのに、消防士の夫を亡くした女性をはじめとする、チェルノブイリ事故に人生を翻弄されたプリピャチの人々の人生を描く。
10年後、女性は「チェルノブイリ・ツアー」という観光ツアーのガイドを勤めてながら暮らし、「なぜここにいるのか」という質問にいつも「我が家だからよ」と答え続けながらも、フランス人の婚約者と夫の友人でチェルノブイリで働く男性との間で、いいかえれば、故郷を離れるべきか、それともどまるべきか、揺れる。
チェルノブイリ事故については、まさに『プリピャチ』という題名のものを含めていくつかのドキュメンタリー映画がつくられているが、フィクションは少ない。(プレスキットにある監督インタビューでは、フィクションはない、と書かれているが、『カリーナの林檎』があるはず。)それだけクリエイターたちが事故とその意味を租借するのに時間がかかったのだろう、とも思ったが、日本では早くも『希望の国』や『おだやかな日常』がつくられている。映画作品をつくるということ自体のハードルが下がっているのだろうか? 業界の事情に明るくないのでコメントは差し控える。
いずれにせよ、僕らは数年後『オオクマ』あるいは『フタバ』という作品を観ることになるかもしれないと予感させる逸品。(主人公の女性の言動にいまひとつ共感できなかったのだが、それはおそらく僕が男性だからであろう。いやそういうことにしておこう。)監督がイスラエル人というのも興味深い。

プリピャチ~放射能警戒区域に住む人びと~ [DVD]

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故郷よ [DVD]

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チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1

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「原子力映画解体」のためのメモ:『ゴジラ』

昨日に引き続き、10月6日に開催された「原子力映画解体」のためのメモ書きを晒します。
この映画、というかシリーズには、まだまだいうべきことがあると思いますが−−。


          *


ゴジラ 1954 日本 http://p.tl/momv


(2011年10月18日のツイッターを編集)


ゴジラ』には大きく分けて3シリーズあるのだが、これは「第1期」とも「昭和ゴジラ」ともいわれる最初のシリーズの第1作目。1954年につくられたもの。もちろん白黒。
海でいくつもの船が謎の事故を起こす。大戸島の古老は、島で語り継がれる「ゴジラ」という祟り神的な怪物ではないか、と言う。古生物学者が現地を調査すると、巨大な足跡とともに三葉虫を見つける。高い放射線も検出される。そして彼らは恐竜のような巨大な生物を目撃する。古生物学者は、海底で生き延びていたジュラ紀の恐竜が、水爆実験によって甦った、と国会で述べる。
やがてゴジラは東京を襲撃する。陸、海、空の自衛隊が立ち向かうが、まったく歯が立たない。本筋に関係ない人々の反応が興味深い。ゴジラ襲撃におびえる東京では、長崎から上京して来たという女性が、東京からも疎開しなければいけないのかしら、ともらす。ゴジラが破壊する街の片隅では、母が子に「父ちゃんのところ に行くんだよ」と言い聞かせている。いずれも1954年らしい台詞だ。
ゴジラに襲われ、逃げ惑う人々の様子、医療現場、災害対策本部などの様子は、いま観るとどうしても3.11の震災を想起してしまうが、制作者たちが意識したのは、当然ながら戦時中であろう。
女性の登場人物は、ある科学者が開発していた「オキシジェンデストロイヤー」を使うべく、悪用を恐れていた彼を説得する。科学者は、水中の酸素を一瞬にして破壊するというオキシジェンデストロイヤーを、平和利用できるまで秘密にしていたのだが、彼女らの説得に折れ、それをゴジラを倒すために使うことを決意する……。
ゴジラは水爆実験によって生まれたことから、しばしば、人間がコントロールすることができなくなった原子力のメタファーであると理解される。それはそれで間違いではないと思うのだが、ゴジラではなく、結果としてゴジラを殺害することになるオキシジェンデストロイヤーこそ、使う者の意図によっては、大量殺戮にも平和利用にも使え、またしばしば人間によるコントロールの利かなくなる巨大科学技術そのものではないだろうか。オキシジェンデストロイヤーの開発者・芹沢博士の迷いは、ロバート・オッペンハイマー原子力の生みの親たちのそれと重ならないだろうか。
映画の最後で古生物学者は、水爆実験を続ければあのような怪物が次々と生まれてくるに違いない、とつぶやくのだが、ゴジラとは、新しい技術を次々と開発するたびにそのリスクなど負の側面に直面し、それに対応する技術をまた開発してさらにそのリスクに…という悪循環を、科学的にも、政治的にも解決できない、人間そのものではなかろうか。

ゴジラ <昭和29年度作品> [DVD]

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ヒバクシャ・シネマ―日本映画における広島・長崎と核のイメージ

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