引き出される「生-価値」

 またしてもYYjに先を越されてしまったが、このニュース(実験結果)はたいへん興味深い。

インスリン作る細胞再生 米教授、マウスの膵臓に遺伝子
2008年8月28日

 膵臓(すいぞう)でインスリンをつくっているベータ細胞を再生することに、米ハーバード大のダグラス・メルトン教授のチームがマウスで成功した。このベータ細胞の働きで血糖値も半分以下に下がったといい、将来の糖尿病治療への応用が期待される。27日付の英科学誌ネイチャー(電子版)に発表する。〔後略〕

 同じニュースを『毎日jp』も伝えているが、タイミングがやや悪い。しかし、見出しは『朝日』よりもこの実験結果の本質をうまく表している。

なくそう・減らそう糖尿病:インスリン分泌細胞、「iPS」使わず作成
ハーバード大がマウス実験、遺伝子操作で

 マウスの膵臓(すいぞう)の細胞に遺伝子を組み込み、インスリンを作る細胞に変化させることに、米ハーバード大の研究チームが成功した。再生医療の切り札として注目される「万能細胞」を使わずに、目的の細胞を作ったのが特徴。糖尿病治療への応用が期待される成果で、英科学誌ネイチャー電子版に発表した。〔後略〕

 YYjは、『ネイチャー』のウェブサイトを直接リンクしている。では僕は、そのアブストラクト(要約)を試訳してみよう。

 再生医療の目標の1つは、組織の修復や再生のために、成体の細胞をほかの種類のものへと有効的に変換することである。成体細胞の初期化の特異な例は知られているが、コントロール下で、ある種の細胞を別のものへと変える一般的な理解はない。ここで私たちは、イン・ヴィヴォ〔生体〕での重要な発生調整因子の再発現という戦略を使って、成体マウスの分化済み膵臓外分泌細胞を、ベータ細胞にきわめて似ている細胞へと初期化する、3つの転写因子((Neurog3としても知られる)Ngn3とPdx1、Mafa)の組み合わせを示す。誘導されたベータ細胞は、大きさや形状、超微細構造において、本来の膵島ベータ細胞と区別不可能である。それらは、患部の血管系を再建し、インスリンを分泌することによって、ベータ細胞の機能に重要な遺伝子を発現し、高血糖を改善しうる。この研究は、成体の臓器における特定の因子を使う、細胞の初期化の一例をもたらし、また、多能性幹細胞という状態への逆転なしに、細胞の初期化を管理する一般的パラダイムを示唆する。(Qiao Zhou et al., "In vivo reprogramming of adult pancreatic exocrine cells to bold beta-cells", Nature , | doi:10.1038/nature07314; Received 26 June 2008; Accepted 6 August 2008; Published online 27 August 2008)

 直訳では、日本語にならないな……。
 それはともかく、再生医療という実践を目標とするならば、必ずしも“万能細胞(iPS細胞などの多能性幹細胞)”を経由する必要はない。(iPS細胞ほどの多能性のない)体性幹細胞を経由する必要すらない。患者本人なりドナーなりの体細胞から直接、患者が必要とする細胞をつくることができればいい。たぶん、がん化の可能性もそのほうが低いだろう。この実験で成功したのは、「外分泌細胞」から「ベータ細胞」への変化で、どちらも膵臓の細胞なのだが、今後は、生物学的な“距離”がもっと離れた細胞から細胞への変化が目標になるのだろう。
 この実験が典型的だが、再生医療における人体の資源化は、臓器移植のそれとは、様子が異なる。細胞や臓器は、ただドナーからレシピアントへ移動するのではない。先に紹介した社会学者キャサリン・ワルドビーとロバート・ミッチェルは、その特徴を次のように論じている。

提供後における組織の操作が意味するのは、提供された組織はどれも複合的な利用法に使われ、複合的な軌道を通るかもしれない、ということである(Waldby 2002a)。いくつかの臓器を例外として、提供された組織はそのまま単にある人からほかの人へと移動されるのではなく、むしろ実験室での加工〔プロセス〕を通じて転用される。そこではそれら〔提供された組織〕はさまざまな方法で断片化され、クローンされ、不死化され、そして増幅される。ある人から採取された組織は、複雑な経路をだどって改変された形態で配分されるかもしれない。異なる日時、そして世界中の異なる場所の、複数のレシピアント〔移植の受け手〕のために。それゆえ、たとえば、提供された1つの胚は、複数の不死化された細胞株の出発点を形成するかもしれない。それはコピーされ、分割され、世界中の研究室やクリニックに送られ、最終的には、限りない患者を治療するのに使われうる。それゆえ組織提供は、同胞のあいだでの直接的な市民的責任の行為から、ドナー-レシピアント関係の複合的なネットワークへと変貌した。そのネットワークは、バイオテクノロジー的加工と、組織バンクや製薬企業、研究企業、クリニックによって強く媒介される。(Catherine Waldby, Robert Mitchell, Tissue Economies, Duke Univercity Press, 2006, p.22)

 ここでのキーワードは「加工〔プロセス〕」である。ワルドビーらが例にあげているのはES細胞(胚性幹細胞)だが、ES細胞やiPS細胞、そのほかの体性幹細胞を経由する方法にせよ、メルトンらのようにそれらを経由しない方法にせよ、細胞や組織は加工される。つまり人の手が入る。
 その結果、細胞や組織から引き出されるもののことを、ワルドビーは(おそらくマルクスを踏まえながら)「生-価値」と呼ぶ。

〔前略〕組織は生産性の微細技術的な操作、すなわちワルドビー(2000、2002a)があるところで「生-価値bio-value〔バイオバリュー〕」と表現したものの最大化に開かれているのだ。これは、生きる過程〔プロセス〕のバイオテクノロジー的な再形成によって生産される、イン・ヴィトロ〔試験管内〕での生命力〔ヴァイタリティ〕の余剰〔剰余〕surplusである。〔中略〕この生-価値のある〔バイオバリュアブル〕操作はしばしば、特許の必要性をともなう。その結果、イン・ヴィトロでの生命力の余剰は、最終的には、余剰商業利益へと変貌するかもしれない。イン・ヴィヴォ〔生体〕での治療と同様に。組織の生産性はこのようにして市場の生産性と交差し、国家的、そして超国家的〔国家横断的〕資本の経済〔エコノミー〕の循環に入り込む。(ibid., p.32-33)

 では、そうしたグローバル経済のなかで、人間は、どのような存在として扱われることになるのか。08.9.5

Tissue Economies: Blood, Organs, And Cell Lines in Late Capitalism (Science And Cultural Theory)

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