消えゆく“批評”

 日本生殖再生医学会がiPS細胞に関する倫理委員会を設置した。

iPS細胞の倫理委設置へ、年内にも提言

 産婦人科医師や獣医師らで構成する日本生殖再生医学会(森崇英理事長)は、様々な細胞に変化する新型万能細胞(iPS細胞)に関する倫理委員会を設けることを決めた。
 人のiPS細胞から精子卵子を作製する研究が認められるよう、年内にも提言をまとめる方針。
 文部科学省は今年2月、人のiPS細胞から精子卵子を作ることを当面の間禁止することを決定した。ただ、生殖細胞研究は不妊治療などにつながる可能性があるため、現在、同省の審議会で生殖細胞の作製を認めるか議論中だ。
(2008年8月27日 読売新聞)

 記事が正しいとするならば、落としどころはすでに決まっているようだ。
 一方、アメリカ科学アカデミーは、iPS細胞に対応して、従来のES細胞の研究指針を改定した。

ヒトや霊長類の胚へ導入禁止=iPS細胞、研究指針に盛り込む−米科学アカデミー

 京都大の山中伸弥教授らが昨年、ヒトの皮膚細胞に遺伝子を導入する方法で、増殖能力が高く、身体の多様な細胞に分化する新万能細胞「人工多能性幹(iPS)細胞」を生み出したことを受け、米科学アカデミーは6日までに、ヒトの受精卵(胚=はい)から作る旧万能細胞「胚性幹(ES)細胞」の研究指針を改訂した。
 iPS細胞のほか、神経幹細胞など成人の体性幹細胞も指針の対象に加えた上で、当面の措置として、ヒトiPS細胞をヒトの胚盤胞(はいばんほう=子宮着床直前まで成長した胚)や霊長類の胚に導入する研究を禁止した。また、ヒトiPS細胞を精子卵子に分化させる研究は、大学や研究機関の監視委員会の審査を受けることを求めた。
 ES細胞は再生医療に役立つと期待される一方、受精卵を壊して作る生命倫理上の問題があり、米国では2001年、既存のES細胞株に限って連邦政府の研究資金支出を認めることを決定。科学アカデミーが05年に研究指針を策定した。米国では現在、日本以上にiPS細胞研究が急速に進んでおり、改訂指針が研究動向に一定の影響を与えるとみられる。(2008/09/06-23:11)

 記事中にある通り、日本では、iPS細胞から精子卵子をつくることは文科省からの通知というかたちで暫定的に禁止されている。おそらくいずれは、アメリカのように「大学や研究機関の監視委員会の審査を受けること」などを条件として、緩和されていくのだろう。
 こうしたルールづくりは通常、省庁や学会に設置される各種委員会----「審議会」、「調査会」など呼称はいろいろとある----が行なう。多くの場合、その結果、「指針」や「ガイドライン」と呼ばれるものがつくられる。ときには問題が国会にまで持ち込まれ、「法律」がつくられることがあるが、現状ではまれである。委員会には、法学者や倫理学者など「文系」の専門家も招集される。彼らは「生命倫理学者」と呼ばれることもある。「生命倫理」と呼ばれる営みには、こうしたルールづくりも含まれる。
 すでにさんざん指摘されていることではあるが、生命倫理〔バイオエシックス〕こそ、バイオテクノロジー〔生-技術〕の人間への応用を後押ししているとも考えられる。
 たとえば社会学者ニコラス・ローズは次のように言う。

生命倫理〔バイオエシックス〕は確実に、それらがこうしたきわめて論争的な、生命とその管理の問題を取り扱うときには、統治の規制技術のなかにおいて、正当化の道具として作動する(Salter and Jones 2002, 2005)。生命倫理は、要素----組織、細胞、卵子精子、胚、人体部品----が、生-資本〔バイオキャピタル〕の循環のなかで動くことを可能にする基本的保証をもたらす。それゆえそれらは、実験室からクリニックに至る環境に結合し、さらに再結合しうる。生命倫理は、批判から、その性質やその活動の結果の詳しい調査から、研究者を守る。彼らが行なうことの「倫理的透明性」を得られるよう、そのプロセスをルーティン化、官僚化することによって。(Nikolas Rose, The Politics of Life Itself, Princeton Univercity Press, 2006, p.255-56)

 こうした現状は、あるていどまではやむをえないことだと僕は思う。しかし生命倫理は、バイオテクノロジーへの“批評”機能を失ってしまったのだろうか。それはそれで哀しい。しかもその傾向は、科学ジャーナリズム(と呼ばれているもの)とも似ていないか。08.9.9

The Politics of Life Itself: Biomedicine, Power, and Subjectivity in the Twenty-first Century (In-formation)

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