自転車便、『こうのとり、たちずさんで』

 昨日のことだが----。
 日比谷のシャンテシネには大学生のときから何百回も訪れているが、ごく最近、気づいた光景がある。
 昼頃になると、シャンテシネ前の、噴水のある広場には、自転車に乗った若者たちが集まり出す。彼/彼女らはみな、スポーツタイプの自転車に乗り、やや大きめのデイパックを背負っている。左側のベルト(?)には無線機が付いている。自転車をよく見ると、車輪のスポークに、みな同じデザインの社名入りカードが挟んである。
 ここは自転車便ライダーらのたまり場らしい。
 彼/彼女らはファーストフード店にすら入らず、噴水の縁に腰かけ、持参してきたらしいおにぎりや、近くのコンビニで買ったらしい食べ物を食べながら、しゃべっている。「……が5万円で出ていた」、「仕事に支障が出ないかな」。専門用語が多くてよくわからないのだが、自転車をめぐる話題の情報交換らしい。「……をブログにアップしたけど……」。ブロガーもいるようだ。会話には加わらず、黙々とカップ麺を食べる若者もいる。もちろん、無線とは別に持っているケータイの画面をのぞいている者も。
 僕は彼らを眺めながら時間調整をし、シャンテシネで、アンゲロプロスの『こうのとり、たちずさんで』を観る。確か大学生のとき、ここか、どこかの名画座で観たような気がするのだが、バカだったので内容をよく理解できず、したがって覚えていない。偶然、再上映するという情報を得たので、観てみた次第。
 国境、難民といった重いモチーフに加え、ほとんど台詞のないまま、長回しが続く。こりゃ、アホな大学生には無理だね。国境の「線」の手前で(こうのとりのように?)片足で立ち、両手を広げてバランスをとる主人公、トラックいっぱいの衣服の山に群がる子どもたち、私刑にされ、クレーンで吊される男、河を挟んでの村人たちの再会……印象的なシーンを数え上げればきりがない。まさにフィクションとしての国家と国家を区切る線としての「国境」、それをやむを得ず越えたのだが、国家からの庇護を受けられなくなった人々、すなわち「難民」……。
 公開は1991年。ちょうどいくつかのフィクションが崩壊したころだ。それから17年。いまは国内にも「国境」があり、「難民」がいる。
 劇場を出ると、自転車便ライダーたちは1人もいなくなっていた。08.10.10