「生-価値biovalue」

 なかでも量的に大きかったのは、大学院の『紀要』の原稿でしょうか。手こずりましたが、なんとかまとまったようです。
 この原稿を書くために、何回か紹介したことのある社会学者キャサリン・ワルドビーが2002年(つまり7年前)に書いた論文を熟読しました。2006年の単行本とともに、たいへん参考になりました。
 以下、その過程でつくったメモ書き(抜粋)です(誤訳がありましたらご指摘ください)。

Catherine Waldby "Stem cells, tissue cultures and the production of Biovalue" Health:, Vol. 6, No. 3, 305-323 (2002)(=Waldby 2002)


〔要約〕この記事は幹細胞技術の社会的、哲学的含意の一部を検討する。幹細胞技術は、移植用の健康な組織が源となり、循環される道筋を変容する展望を持つ。まるごとの臓器を提供する市民における社会経済から、ほかのこと、胚が治療用組織の主要な源とであることへと。この記事は、そのような変容が伴うであろう、健康という概念、身体的関係、社会的債務の変容を検討する。生-価値という概念を使うことによって、この記事は、胚が組織の源として振る舞うよう生物学的に操作される筋道を示し、生-価値や健康、資本的価値とのあいだの関係を検討する。幹細胞技術が持つであろう影響を議論する。健康な身体という概念において、とりわけ加齢の一時性において、またより一般的には人間の理解において。(Waldby 2002:308)


 こうした新しい幹細胞技術への私の関心は、バイオテクノロジーへのより一般的な関心、そしてその社会性socialityや主体性subjectivityへの関係から生じている。私はとりわけ、バイオテクノロジーの発展がしばしば、身体と身体の断片、人間のアイデンティティと社会システムとのあいだの自然な関係を崩し、再構成する道筋に興味を持っている。(ibid.:308)


 新しい生殖技術や遺伝学的検査と同じく、幹細胞技術は、ヒトの身体の境界や要素の再構成や、「分離可能、交換可能で、再統合可能な人体部品」(Rabinow, 1999:95)の発展にかかわる。人体と人体の断片とのあいだの関係における急速な変化は、40年以上に渡って、医学バイオテクノロジーにおける発展を特徴付けてきた。臓器移植は体外受精に、遺伝学的組織サンプリングに、ヒト細胞株の作出、そしていまは幹細胞技術に後を継がれた。(ibid.)


〔脚註6〕私はこの「主体性subjectivity」という言葉を、概して〔ミシェル・〕フーコー的な方法で使っている。そこでは主体は、規律と生-政治的な権力の特定のネットワークを通じて構成され、具体化の歴史的に特別な様式において物質化されていると理解される。同時に、この言葉は、そうしたネットワークのなかで利用可能になった、自己やアイデンティティ、行為体〔エージェンシー〕の経験を呼び起こす意図を持つ。(ibid.:320)


 この点において、私は、このバイオテクノロジー的な軌跡を明確化するために、以前の仕事であるていど発展させた、「生-価値biovalue」という概念を導入したい。生-価値は、生の過程のバイオテクノジー的な再形成によってつくられた生命力〔ヴァイタリティ〕の産出を意味する。バイオテクノロジーは、生の過程の牽引力を得ようと、特定の線に沿った生産性を増加または変容させるためにそれらを引き出そうと試み、その自己再生産および自己維持能力を強化する。生のプロセスの、この強化またはてこ入れは、典型的には、マクロ解剖学的システムとしての身体のレベルではなく、細胞もしくは分子の断片、メッセンジャーRNAバクテリア、卵母細胞、幹細胞のレベルで起こる。さらにいえば、それはインヴィヴォ〔生体内〕ではなく、インヴィトロ〔試験管内〕で起こる。実験室のなかで工学的に操作された生命力である。そこでは〔人類学者ポール・〕ラビノウが述べたように、生物学的な断片が「分子や生化学的産物や出来事の、潜在的に分離されて、認識可能で、そして開発可能な容器」(Rabinow, 1996b:149)として構成されている。(ibid.:309-310)
 
 こうした言葉を投入すると、バイオテクノロジーは、生-価値の幅、つまり断片的な生-価値の余剰surplusを生産する。一般的にいって、生-価値の生産には2つの動機が存在する。この技術の推進者らによって前面に出されている一般的動機は、使用価値use value、人の健康への貢献可能性をつくるという希望である。科学者や予算支出機関、患者団体は、いつの日か幹細胞の生命力が病気による衰弱の緩和、機能の向上、そして幸福感well-beingへと変容することを望んでいる。(ibid.:310)
 
〔脚註7〕「使用価値」と「交換価値」という言葉は、直接的にはマルクスから取られている。彼の労作、『資本論』第1巻の価値の理論から。使用価値は、ある対象の有用さを表現する。消費されることを許し、人間にとって有用な仕事を行なう、物理的な性質である。交換価値は、ある使用価値が別の使用価値に交換されうることを通じた、価値の標準化に関係する。それゆえ交換価値の確立は、市場の形成やカネにもとづく経済〔エコノミー〕にとって本質的なものである。(ibid.:320)


 第2の動機は、〔ポール・〕ラビノウの言葉が明確に意味するように、交換価値exchange value、つまり買われ、売られうる生物学的商品の生産である。生-価値の生産は、資本価値の生産にともなわれている。生-価値の生産という過程はまた、技術的な革新という過程でもある。この革新は、細胞株や遺伝子、遺伝子導入生物を発明として特許化することを可能にし、その地位を、知的所有権〔財産権〕、そしてその発明者の利益の供給可能性として保証する。しかしながら生-価値のある断片の活動を、身体システムのレベルでの生命力、またはバイオテクノロジー企業というレベルでの利益へ変容させる過程は、きわめて不確かである。(ibid.:310-311)
 
 幹細胞技術の夢はそれゆえ、再生生物学の夢であり、そこではすべての喪失が修復され、そこではパーキンソン病のL-ドーパといった薬理学のような、現在利用可能な治療が組織の内部的な統合性に置き換わる。老化した身体は、とても若い身体の胚性組織の生命力を取り込み、それ自体、無制限に再生産できる。もちろんこの夢の生物学は、そのようには認識されていない。それは生-価値のある断片の生命力、自己更新と不死性が、マクロスケールな身体の質へとスケールアップされうるという希望にもとづいている。それは、生-価値の健康への翻訳にかかわるリスク、危険、不確実性を無視している。何人かの幹細胞科学者がコメントしているように、幹細胞の可塑性や不死性は、治療の可能性だけでなく、不適当な組織への発生というリスクを示す性質でもあるのだ。「[研究者らは]理論的な「多能性」を持つそのような細胞が不適当な細胞(たとえば脳のなかの筋肉)を生じさせたり、奇形種を形成したり、より大きな臓器のなかで自立した臓器(たとえば心臓の中の神経管)をつくったりしないような、セーフガードをつくらなければならない(Snyder and Vescovi, 2000:828)。同時に夢の生物学は、医学的バイオテクノロジーにかかわる社会関係について、きわめて有益である。〔略〕健康は補給supplementationにかかわり、まずます生物学的になっているテクノロジーにおいては、この補給は薬理的なものでも機械的なものでもなく、生-価値的なものである。それは価値を付与された生物学的断片を活用する。その生命力的な質は加工され、操作されている。そのような断片の源は、分散化されているようだ。〔略〕組織や生物活性のある物質はますます、MoやHeLa細胞株のように、「廃棄された」ヒト組織から得られる。また動物、ときには遺伝子導入動物から。嚢胞性線維症の治療に有益な酵素を、そのミルクのなかにつくり出すよう、PPLファーマシューティカルズによってクローンされたヒツジのように。そしていまでは、胚から。(ibid.:317-318)
 
 こうした複雑で新しい組織のネットワークは、組織経済の社会的管理のための生-政治的フレームワークの再考を要求した。提供された胚性組織の数え切れない起源を考えるならば、提供は、IVF体外受精)のカップルにとってますます問題的なものとなるだろう。ドナー〔提供者〕とレシピアント〔受け手〕とのあいだの関係を明確に述べる、いくつかの方法が開発されているにもかかわらず。幹細胞から過剰な交換価値を抽出する試みはまた、提供の邪魔として振る舞うかもしれない。カップルは、特許や利益の最大化についての意図を持つ民間企業に胚を提供することについて、いごこちの悪さを感じる、といったように。組織のレシピアントは、胚性組織に恩義を受けている健康形態を実現する困難さを持つかもしれない。(ibid.:319)
 
 同時にこうした問題は、ただ人間主義的な生命倫理というカテゴリーや道徳性の再主張を通じてのみでは、取り組まれ得ない、と私には思われる。多くのそのほかの現代的バイオテクノロジーと同じく、幹細胞技術は、ヒト/人間は自然的、生物学的なカテゴリーではなく、むしろ状態であり、テクノ生物的な生産の複雑なネットワークから立ち上がる存在であるという事実を明白にする。現代のバイオテクノロジーは、ヒトと非ヒトとのあいだの複雑な相互関係や技術的媒介を理解できる生命倫理学者と、これを認める枠組み的な生活様式を必要とする。幹細胞技術の周囲にできうる社会関係の種類は、生産のネットワークをめぐる、より広い社会的交渉の一部として理解されなければならない。それが生産するであろう、ヒトと非ヒト、存在物entitiesと混合物hybrids、健康と病いといった種類である。(ibid.:319)

 ワルドビーや、これまた何度か紹介してきた社会学者ニコラス・ローズらがフーコーマルクスとつなげてくれたおかげで、だいぶ見通しがよくなりました。
 僕自身が彼らの功績をうまく利用しながら、オリジナルの議論を展開できるかどうかが、ほんとうの課題です。09.1.16

Tissue Economies: Blood, Organs, And Cell Lines in Late Capitalism (Science And Cultural Theory)

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