インフルエンザ以上の恐怖

 空気読めばいいんでしょッ!!(逆ギレ)
 昨日、

 記事をふつうに読めば、〔略〕誰でもすぐにわかるでしょう。

 と書きましたが、「日本人はバカばっかだから、わかんないよ」って? そう言う人のほうが平均的日本人よりも愚かだと思います。
 ところで武田さんは、

〔略〕夕方には某所でCXだけ見たが、紹介されていた感染者数は数からして、発病者や発病者の家族で、検査の結果、感染が実際に確認されたひとではないかと思われる。感染者をそこに限ってしまうと感染者を分母とした発病率や致死率が高く計算されるので危険性が高くイメージされてしまう。発病と感染は違うのだという原則を守って、感染者数を出して、それを分母にするように出来ないものか。〔略〕

http://162.teacup.com/sinopy/bbs/980

 と書いていますが、いま一般に見聞きされる「感染者数」というのは、国立感染症研究所など専門機関のいう「確定症例数」のことですね。確かにそれを分母してたとえば死亡例数を分子にすると、それなりに高い数字が出てしまいます(いま入手可能な数字で「発病率」は出せないと思われます)。「発病と感染は違うのだという原則」にもとづいた感染者数は、おそらく現在準備中の疫学調査で、あるていどわかってくるのではないでしょうか。(いっそのこと人口(全世界および各国)を分母にする、というテもありますが……数字があまりに小さくなりすぎて比較分析が不可能になりますね。)せめて武田さんのいうように、過去の感染例などを参考に出された推測値があるといいのですが……。
 でも、いまわかっている確定症例数と死亡例数だけでもカンタンにわかることがあります。確定症例数を分母とし、死亡例数を分子とした数字、つまり「致死率」を見ると、どう見てもアメリカよりもメキシコのほうが圧倒的に高い。
 僕には、同じウイルス(たとえば新型インフルエンザ=ブタ由来インフルエンザA/H1N1)に感染しても、ほかの要因によって、助かるかそれとも死亡するかが決まってしまうことのほうが、インフルエンザそのものの恐怖よりもずっと大きな恐怖に思えます。今回の件では、アメリカとメキシコという2つ国のあいだでの数字の違いが見えたので、たいへんわかりやすいのですが、同じ構造は1つの国のなかにもあるはずです。
 また、こうした社会疫学的議論、健康格差論、「社会科学としての医学」論、「健康の社会的決定要因」論を口にすると、「そんなことは当たり前!」と言い放つ人(学者、研究者と呼ばれる人)がいるらしいことも恐ろしい。
 インフルエンザそのものよりも大きな恐怖が、ここには2重に存在します。09.5.4


確定症例数(5月3日)
http://idsc.nih.go.jp/disease/swine_influenza/case2009/090503case.html

〔対談〕「社会疫学(Social Epidemiology)」とは何か?
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2004dir/n2566dir/n2566_05.htm

Social determinants of health
http://www.who.int/social_determinants/en/index.html


追記;
 空気を読まずに……。
 僕の住む街には巨大なショッピングモールがあり、最近、それが全面的に改装されました。先日、所用でそこを訪れたところ、小さくて品揃えに幅がなく、何の役にも立たなかった某書店が大幅に拡大されていました。専門書もかなり置かれるようになり、ブックファーストジュンク堂などに近い雰囲気です。ありがたいことに、これでそれなりに「使える」書店が近くに2件あることになりました。本屋さんも必死なのでしょう。売れ筋の新刊と雑誌だけを置いていればいい、という牧歌的な(?)時代は終わったようです。
 僕がほぼ毎日通っているスポーツクラブのプールでは、いつも有線放送のJポップのチャンネルらしきものがBGMとしてかかっているのですが、最近、特定のアーティストのベスト盤がかかるようになりました。今日かかっていたのはBOOWY。僕はBOOWYのよい聞き手ではありませんでしたが、それでも「わがままジュリエット」などを聴くと、懐かしく感じます。
 そうこうしているうちに、また数字が変わりましたね。