掟の門

 カフカの書いた「掟の門」という短編小説がある。ほんの4ページほどのものなので、短編というよりは掌編というべきかもしれない。僕は池内紀編訳の岩波文庫カフカ短編集』を持っているのだが、ネット上にも全文がいくつかアップされている(たとえば森本誠一訳「掟の前に」など。訳者のクレジットはないが、たとえばこれは池内訳である)。
 僕が初めてこの小説を読んだのは、たぶん大学生のときで、ほとんど理解できず、「世の中には、個人の力ではどうにもできない不条理なことがたくさんある」という、ごく表面的な解釈しかできなかった。
 ところがふと先日、思うところがあって読み直したところ、「ん?」と思った。この小説のメッセージって、「何事も気の持ちよう」とかいう自己啓発屋たちのタワゴトと同じなのか? たとえば、最後の部分----。

「まだ何を知りたい。貪欲なやつめ。」と門番は言う。
「みんなが掟を求めて努力しているのに、どうして長年のあいだ私以外に誰も門へ入ることを求めなかったのですか。」
 門番は男がすでに臨終の際にいることを知り、消えゆく聴力にまだ感知できるよう男にうなりかける。
「ここはお前以外のやつは誰も入れなかったのだ。この入口はお前だけのために作られたものだったからな。おれはもう門を閉めに行く。」(森本誠一訳「掟の前に」)

http://mrmts.com/jp/docs/translation/Vor_dem_Gesetz.html

 田舎から来た男が門のなかに入れなかったのは、男本人の「自己責任」?
 いや、違う。前半から中ごろまでを読めばわかるように、門番の発話と行動は、男にとっては不条理以外の何ものではない。たとえ門番に悪意はなくても。いや、門番に悪意がないからこそ、男にとっての不条理はより大きなものとなる。僕の学生時代の理解は、そんなに間違っていない。カフカのテキストそのものにおいても、現実社会に置き換えても。09.6.4

カフカ短篇集 (岩波文庫)

カフカ短篇集 (岩波文庫)