映画批評の困難

アバター』は過大評価されていると思う。しかしもちろん、面白い解釈ができないわけではない。
 たとえば経済学者の竹中正治氏はこう批評している。

この映画を見て、私はすぐにケビン・コスナー主演・監督の映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(1990年)を思い出した。19世紀半ばのアメリカ西部を舞台に、フロンティアで遭遇したインディアン部族に惹かれていく騎兵隊中尉を主人公にした物語である。〔略〕アメリカ映画に野蛮な「文明人」vs.気高い「野蛮人」の構図が繰り返し登場するのはなぜだろうか。この構図は、アメリカの保守思想としての白人(アングロ・サクソン)中心主義に対して、リベラリズム思想が対峙する時に登場する。/すなわち、アメリカのリベラリズムが示す異文化や文化的な多様性への理解と共感が根底にあるのだ。あるいは、自然を損なうことを代償に発展して来た現代機械文明の中で、人々が抱く自然的な要素に対するノスタルジーと悔恨であるとも言える。〔略〕チベット人ウイグル人がこの映画を見れば、ナビ人に自分らの姿を重ね、私たち日本人や西欧人は「ブッシュ+ネオコン」権力の挫折を重ね見る。もしかしたら、アメリカを狙うテロリストでさえ、この映画に興奮するかもしれない。〔略〕

http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100203/212564/?P=1

 僕も『アバター』を観て思い出したのは、同じキャメロンの『エイリアン2』と、『ダンス・ウィズ・ウルブス』や『ラスト・オブ・モヒカン』など一連の“インディアンもの”だった。この評者に近い感想を僕も抱いた。
 しかし作品として評価すると、僕は『アバター』に高い点数を付ける気にはあまりなれない。したがって『アバター』を熱く語ることはできない。竹中氏ほど精緻な分析もできないだろう。原稿依頼があれば、もちろん挑戦するが。
 ところで僕はここ数年、主にミニシアターで公開されている作品群に、ある共通点を見出している。それらが見せているのは、ある時代が終わり、ある時代が始まろうとしている様子だ。未来社会の科学技術をテーマに描いた小説や映画を「サイエンス・フィクション(SF)」と呼ぶのならば、僕が注目している作品群を「○○○○○・フィクション(FF)」と呼ぶこともできるだろう。
 そうした作品群をまとめて批評し、本にしてみたい。しかし、需要はあるのだろうか、という不安もある。『アバター』のような大作は、観ている人の絶対数が多いので、その批評もそれなりに読まれるだろう。しかし『サラエボの花』、『シリアの花嫁』、『千年の祈り』のような作品は、観ている人の絶対数が少ない。その批評を読みたがる人もそんなに多くはないだろう。そこに困難がある。しかし、挑戦する価値のある困難でもある。10.2.4


追記;
 もし『アバター』を批評する機会があったら、僕は“映画のなかでの障害や病いの描かれ方”というテーマで分析すると思う。このことはずっと前から気になっている。これも需要があるかが問題だが。