学位取得−−社会学者の誕生

 本日、大学から正式に、社会学博士号を授与されました(実は、「内定」は2月半ばには出ていました)。
 学位論文の題目は「幹細胞を貫く権力 生-資本の中の人間」です。幹細胞技術をめぐる論争の歴史を自分なりに振り返ったうえで、それを、近年、英語圏の医療社会学や医療人類学者が盛んに提唱している「生-資本bio-capital」という概念などを援用して分析しました。指導教授は加藤秀一先生、主査は柘植あづみ先生、副査は林真理先生(外部委員)と佐藤正晴先生です。
 修士課程を入れて6年間もかかってしまいましたが、なんとか学生生活にピリオドを打つことができました。その間にあったことは、あまりにいろいろとありすぎて……。
 要旨は以下の通りです。
 まだまだ未熟者ですが、今後ともよろしくお願い申し上げます。10.3.19

 本論文の目的は、幹細胞をめぐる諸技術についてその概略、とくにこの10年の歴史を描きつつ、それがもたらしつつある〈人間〉の変容を解き明かすことである。
 2007年11月にヒトでの樹立が報告されたiPS細胞(人工多能性幹細胞)は、ES細胞(胚性幹細胞、とりわけクローン胚由来のES細胞)と比較して、圧倒的に支持を集めているように思われる。この報告により、英語圏では「幹細胞戦争」とさえ呼ばれることのある社会的議論は、一段落ついたようだ。その主な理由は、1人の人間となる可能性のある胚を壊したり、壊すことを前提につくったりすることなく、成人の体細胞(分化済みの細胞)から得られること、であろう。しかし、体細胞から得られる幹細胞においてもなお、注意すべきことはないのだろうか。
 考えられる大きな問題の1つは、幹細胞技術とその応用が「人体の資源化」とも呼ぶべき事態をさらに推し進めるということである。人体やその一部、それからつくられた幹細胞、およびそれから分化誘導された細胞は、幹細胞技術を含む各種バイオテクノロジーの進展にともなって、石油のように産業資源として扱われているのである。
 さらに重要なのは、そうした人体の資源化・資本化と循環・相互作用しながら、その供給源である人間そのものが資源化または資本化しているということである。これは資本制そのものの変容と並行する事態である。そこでは、扱われる商品が〈労働力〉から〈生命力〉へと変容している。このように人体・人間が資源化・資本化されている社会のあり方、すなわち新たな資本制のことを、「生-資本」と呼ぶことができる。
 こうした事態は、科学技術史においても前代未聞のことであると同時に、その一方で、カール・マルクスが19世紀に指摘・批判した「疎外」や「対象化」の延長上にある展開でもある。この事態を、ミシェル・フーコーが提唱した「生-政治」、「生-権力」という概念と重ね合わせ、「生-疎外」と呼ぶこともできる。また、ここで強調しておくべきことは、人間は誰もが同じように--平等かつ公平に--疎外、対象化されるわけではなく、社会的・経済的弱者がより強くそれにさらされる傾向があるということである。
 以上をまとめると、冒頭の問いに対する本論文のさしあたりの回答はこうなる。現在、幹細胞技術をはじめとする最先端のバイオテクノロジー(生命工学)がもたらしつつある〈人間〉の変容は、19世紀以来の資本制経済の超高度化による、かつてないほどの疎外の深化であり、しかもそこには階層間の不平等が組み込まれているということである。
 ただし、本論文は幹細胞技術を含む生物医学を、全面的に否定するものではない。生物医学全般がわれわれに恩恵をもたらしていることは言うまでもないし、幹細胞技術もまた、難病の治療などに役立つ可能性は決して否定できない。むしろそうであるからこそ、「生-疎外」は解決困難な課題なのである。本論文は、生物医学のこうした両義性についても若干の考察を試みたが、いまだ明確な結論に至っておらず、今後の課題として残されている。