動物の人間化、人間の動物化

 昨日の続き。
 口蹄疫について、マスコミではすでに飽きるほど

人には感染せず、感染肉を食べても人体への影響はない。

http://www.asahi.com/topics/%E5%8F%A3%E8%B9%84%E7%96%AB.php

 と繰り返されているのに、ウシは殺され続けている。
 どこかで見た風景だ。2009年、鳥インフルエンザ(H7N6)の感染が報告され、大量のウズラが殺処分された。僕は偶然、その現場の比較的近くに滞在していた。とはいっても、情報はメディア経由でしか得ていなかったのだが。僕はそのとき、鳥インフルエンザのウイルスよりも、ウズラを大量虐殺する人間のほうに戦慄を覚えた。鳥インフルエンザならば、種類(たとえばH5N1)によっては人間に感染し、死に至らしめる可能性がないわけではない。しかし口蹄疫はどうだろう……。
 殺処分とは、いわば究極の「隔離」ではなかろうか(「隔離」という行為の含意については、武田徹さんの『「隔離」という病い』中公文庫、を参照)。
 美馬達哉さんも注意をうながしているように、感染症というリスクに対応するために、人間は人間だけではなく、動物をも監視の対象にしている。動物を人間のように扱うこと。アガンベン風にいえば、動物の人間化である(『〈病〉のスペクタクル』人文書院)。
 しかし人間と動物との境界線があいまいになることは、同時に人間を動物のように扱うこと、人間の動物化をも招くことにならないだろうか。
 しかもややこしいことに、人間の動物化においては、誰もが同じように動物のように扱われるわけではない。動物のように扱われない人間と動物のように扱われる人間のあいだに境界線が浮上する。
 もちろん、人間は致死性の高い感染症にかかっても殺処分されることはない。しかしながら、同じウイルスや細菌に感染しても、すなわち生物学的要因が同じでも、死や重症化には至らない者と至るものがいる。それを決めるのは、間違いなく社会的要因である。経済的要因といってもいい。
 そこに生じている力は、人間たちを生きるに値する者と生きるに値しない者とを切り分け、後者を死の中に廃棄する----その力学をフーコー的に表現するならば、いうまでもなく生-政治、あるいは生-権力ということになる。
 そんなこと、今回の口蹄疫流行とは関係ない、という人もいるかもしれない。僕はそうは思わない。もちろん関係ある。いま生きるに値するウシと生きるに値しないウシとを切り分けている力学は、いつでもその対象を、人間に移すことができる。人間に対象を移したとき、生きるに値しないものを死の中に廃棄する方法は見えにくくなる。いや、それはつねに人間を対象とし、効力を発揮している。感染症という契機をともなわず、殺処分(死-権力?)という見えやすい方法論をとらないため、わかりにくいだけだ。10.5.21

「隔離」という病い―近代日本の医療空間 (中公文庫)

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「病」のスペクタクル―生権力の政治学

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