試験をめぐる学生の態度―今昔

 昨日のことだが……。
 午前中、国士舘大学の講義「生命科学と21世紀社会」の試験を行った。今年も例年のように先週、つまり最後の講義であらかじめ2つの問題を提示し、そのうち1つを出題する、と予告しておいた。そしてそのうち1つを実際に出題した。
 試験終了後、1人の男子学生が深刻な顔で話しかけてきた。彼は、問題を自分で選べると思って、僕が出題していないほうの問題だけを勉強し、その答えを書いてしまった、と言う。もちろん彼の誤解である。僕は2つの問題のうちどちらか1つを、僕が選んで出題する、と言ったのだ。彼が僕の話をよく聴かなかったのが悪いのか。彼の理解力が、もっといえば「やる気」が、そもそも足りないのか。それとも僕の説明が不十分だったのか。もちろんそうした可能性も否定できないのだが、問題はそれらだけではない。ほんとうに深刻な問題は、学生どうしのつながりの希薄さであろう。
 僕らが学生だったころには、試験のころになるとどこからかノートのコピーが出回り、科目によっては模範解答まで行き渡った。僕らはそれらを丸暗記して試験にのぞんだ。実際、最初の講義と試験のときだけ出席して取った単位もある。あまり自慢できることではないが、事実である。
 ところが最近の学生さんたちは試験についての情報交換をほとんどしないらしい。僕らのころには、たとえ自分が先生の説明を聞き逃していても、試験の情報は自然に流れてきた。彼らには、僕らにとっては自然で当然だったものがほとんどないらしい。つまり彼らは互いに切り離されている。大学も、学生も、試験も、社会の趨勢を間違いなく反映しているのだ。
 しかし、僕にできることはほとんどない。彼には、君の書いた答案から、僕が実際に出題した問題の答えにもなるようなことを抽出し、それに点数を付けよう、そうすれば少なくとも0点は避けられる、いやそれしかないんだよ、と言った。僕が実際に出題しなかった問題を、出題したことにして君の答案を採点することはできない、というのは、2問ともきっちり勉強して試験にのそんだ学生たちにとってそれは不公平になるからだ、とは言えなかった。それとも冷徹にそう言うべきだったのか……。
 国士舘大学から明治学院大学へ移動。食堂で書評対象の本を読む。やはり明学は落ち着く。夕方、博論の主査を務めた教授の主催する研究会に出席したのだが……途中で気分が悪くなり、失礼する。
 本日は、平日とまったく同じように御茶の水の編集部で作業。夕方、やはり気分が悪くなって作業を続けられなくなり、平日よりやや早い時間に切り上げた。
 そして明日、新しい週が始まる。講義が終わったので少しは楽になるはずだが、週あたりの労働時間が70時間から65時間労働になるぐらいだろう。10.7.25