「アメリカ司法省、遺伝子特許への疑念を提起」

先日参加したある研究会の後、ある人から「カユカワさんって、乳がんの遺伝子特許について○×△□※……」と尋ねられました。
この件については、「JCcast」の第36回で話題提供したことがあります。


第36回 遺伝子特許、脳トレ、電子的選挙活動
http://journalism.jp/podcast/2010/05/36.html


今年の3月、アメリカの連邦裁判所は、患者や医師たちが乳がん遺伝子の特許の無効を求めた訴訟において、原告らの主張を認め、それらが無効だという判決を下しました。被告の企業は上告しました。
その後の動きをまとめておきましょう。
まずは直近の動向から。10月29日、アメリカの司法省は、この訴訟において「法廷助言書」を提出し、そのなかで遺伝子は特許の対象に適さない、という考えを表明しました。つまり司法省の「法廷助言書」もまた、前述の判決を追認したことになります。
主要紙では、『朝日新聞』が取り上げました。

米政府、遺伝子の特許認定せず 研究加速へ政策転換か

2010年10月30日23時6分

 【ミルウォーキー(米ウィスコンシン州)=勝田敏彦】米政府は29日、「生命の設計図」である遺伝子について、特許として認定しない新見解を明らかにした。有用性があれば遺伝子の特許を広範囲で認める従来の政策は、高額のライセンス料などで医薬品やバイオ技術の研究開発を阻害することも懸念されてきた。今回の見解に基づいて政策が変更されると、自由な研究開発が加速されそうだ。

 乳がんに関係する遺伝子と関連特許を巡る訴訟で、米司法省が裁判所に提出した書面で明らかになった。書面は「組み換えられていないDNAは自然の産物」として特許対象でないとし、それらの遺伝子を分離することも、発明にはならないとした。

 今回の見解は、遺伝子特許を多数持つ米国のバイオ企業から反発を招く可能性がある。一方で、運用はやや異なるものの、やはり遺伝子を特許の対象にしている日本や欧州の知的財産戦略の見直しにつながる可能性もある。

http://www.asahi.com/health/news/TKY201010300374.html

以下、英語圏の報道などを見ていきましょう。

金曜日〔10月29日〕、長年の方針を覆して、連邦政府は、ヒトやそのほかの遺伝子は特許に適さない、というのはそれらは自然の一部だからだ、と述べた。この新しい見解は、医療やバイオテクノロジーに多大なインパクトをもたらしうる。/この見解は、金曜日の遅く、乳がんと子宮がんにつながるヒト遺伝子2つにかかわる訴訟において、司法省が提出した法廷助言書のなかで宣言された。〔略〕この法廷助言書におけるこの位置付けは、さまさまな政府機関〔特許商標局や国立衛生研究所など〕のなかでの議論の結果として表れたものだが、特許局によって効力のあるものとなるかどうかは不明である。

http://www.nytimes.com/2010/10/30/business/30drug.html

この『ニューヨークタイムズ』の記事には「法廷助言書」へのリンクもあります(「法廷助言書(friend-of-the-court brief, amicus brief)」とは、事件の当事者ではない第三者が裁判所に提出する意見書のことだそうです)。その法廷助言書から2カ所だけ引用しておきましょう。

天然のヒト遺伝子という化学的構造物は自然の産物である。そしてその構造物が自然環境から“分離”されたとき、その自然の産物は、その綿の種から抽出された綿の繊維や大地から抽出された石炭以上のものではない。

アメリカ合衆国は、分離されたものの改変されていないゲノムDNAは、特許化可能な対象ではない、と結論付けた。

ニューヨークタイムズ』の記事は続けます。

〔2009年に〕アメリカ自由人権協会や「公的特許財団」がさまざまな個人や医学研究者、学会を組織し、ミリアド・ジェネティクス社やユタ大学財団が保有する特許について異議申し立てする訴訟を起こしたとき、変化が起きた。この特許は、BRCA1とBRCA2という2つの遺伝子をカバーする。ミリアドは、女性が乳がんや子宮がんを予測する変異を持っているかどうかをみるために、3000ドル以上の検査をその遺伝子に実施してきた。/〔2010年〕3月の驚くべき判決において、マンハッタンにある連邦地方裁判所のロバート・W・スウィート判事は、この特許は無効である、と判決を下した。彼は、遺伝子はそれが運ぶ情報のために重要なものであり、その意味において、分離された遺伝子は、身体の中にある遺伝子と何も変わらない、と言った。政府は、この判決はその方針を再評価するよう促す、と言った。/ミリアド社とユタ大学は上告した。

その結果、上述の「法廷助言書」が提出されたわけです。ほかの記事も見ておきましょう。

金曜日〔10月29日〕の遅く、司法省が法廷への提出文書のなかで、遺伝子は自然の産物であるので、特許には適さないと宣言したとき、ワシントンの有力な特許弁護士ハロルド・C・ウェグナーは、言葉を加減することはなかった。

自然に存在するDNA配列についての賛否両論ある特許に対する、予期せぬ挑戦


3月の地裁判決までのこの問題の歴史を、専門家2人が『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』に寄稿した解説を通じて、振り返ってみましょう。

出来事
1953 ワトソンとクリックが『ネイチャー』でDNA二重らせんを示す記事を公表
1982 ダイアモンド対チャクラバティ訴訟
1983 (カリフォルニア大学の理事たちに対して)最初の遺伝子特許が発行
1988 ヒトゲノム計画が開始
1989 国際乳がん連携コンソーシアムが設立
1990 マリ-クレール・キングらが『サイエンス』で第17番染色体上で乳がんにつながる遺伝子(BRCA1)があることを報告
1991 NIH(国立衛生研究所)が機能がわからない、何千もの短いDNA断片(発現遺伝子配列断片[EST])についての特許を請願
  ミリアド・ジェネティクス社が設立
1994 BRCA1の塩基配列が報告
1995 BRCA2の塩基配列が報告
1996 BRACAnalysis検査が開始
1998 最初のEST特許が発行
  BRCA1とBRCA2の特許が発行
2000 ヒトゲノム計画とセレーラ・ジェノミクスによって、ヒトゲノムの完全ドラフト塩基配列が宣言
2001 アメリ特許庁の新しいガイドラインによってEST特許がありえないことに
2004 ミリアドの特許権EUの法廷によって厳しく制限される
2006 ミリアド社がBRCA1とBRCA2の、まれではあるが、幅広い組み合わせの検査を開始
2009 ミリアド訴訟がニューヨーク南部で始まる

3月の判決については、さまざまな意見が表明されました。そのなかでも僕が強い説得力を感じたのは、ノーベル賞を受賞した経済学者ジョセフ・スティグリッツ生物学者ジョン・サルストンが共著で『ウォールストリートジャーナル』に寄稿した論説と、ベン・ゴーダクルというコラムニストが『ガーディアン』に寄稿したコラムです(後者は、顔写真がフランケンシュタインになっていたので、匿名の人かと思ったのですが、イギリスではそれなりに有名な科学評論家のようです)。

まずはスティグリッツらの論説から見てみましょう。

〔略〕遺伝子の特許化によるささいな社会的利益がどんなものであれ、知識を閉じ込めることによる大きなコストには見合わない。もし、遺伝子の特許を認めることを拒否した結果として、民間における研究費用のわずかな減少があるとしたら、公的な費用の増加がなされうるだろうし、なされるべきであろう。〔略〕基本的な数学理論と同じく、遺伝子は「基礎知識」の例である――特許化されえないし、されてはならない種類の知識である。もしアラン・チューリングの数学的洞察が特許化されていたら、現在のコンピュータの発展はずっと遅れていただろう。知識はコストなしに生産され得ないものであることは事実だ。しかし、はっきりとした代替物がある。すなわち大学や研究所で、政府や財団によってサポートされる研究である。〔略〕

http://online.wsj.com/article/SB10001424052702303348504575183982493601368.html

ようするに、スティグリッツらは遺伝子特許を、科学技術の研究開発の行き過ぎた民営化とみなし、その弊害を憂慮しているわけです。
次にゴーダクルのコラムをみてみましょう。このコラムにはたいへん重要な事実が含まれていますので、その情報源も確認していきたいと思います。

〔略〕彼らに対するこの訴訟の原告の1人は、たとえば、ミリアド社のBRCA1検査を受け、それとは別に同じ遺伝子について別の誰かによって確かめたいと思う患者である。彼女はそのような検査を受けることができない。アメリカでは、ミリアド社だけがBRCA1検査を提供することが許されているのだ(そして彼らはそれに3000ドル以上を請求する)。同社は、BRCA1遺伝子を使うがんのリスクの検査を開発した人々を追い求めてきた。そしてそのことは新しい検査の開発を遅らせた。

ゴーダクルは、遺伝子特許によって研究開発そのものが萎縮している事実を紹介します。

実際のところ、アメリカの有力な研究所の所長全員を対象とした2003年のある調査は、この分野の研究は遺伝子特許によって医療の全分野が萎縮していると考え、53パーセントが「ある特許のために、ある臨床もしくは研究目的の検査やサービスを開発もしくは実施しないことを決めたことがある」ということを見出した。

この事実の情報源は以下。


Effects of Patents and Licenses on the Provision of Clinical Genetic Testing Services
http://jmd.amjpathol.org/cgi/content/full/5/1/3


ゴーダクルが続けます。

これは驚くことではない。2005年のある研究は、ヒトゲノムにある2万3688個の遺伝子――あなたをかたちづくる暗号――すべての約5分1がすでに特許化されていることを見出した。

この事実の情報源は以下。


Private companies own human gene patents
http://www.guardian.co.uk/science/2005/oct/14/genetics.research


Intellectual Property Landscape of the Human Genome
http://scienceonline.org/cgi/content/summary/310/5746/239


ゴーダクルが続けます。

『ゲノミクス』誌で公表されたばかりの「BRCA1における特許請求の転移」と題する論文は、1998年に認可されたBRCA1の特許の本当の中身を調査した。それらはばかばかしいほど不条理だった。〔略〕この特許は、BRCA1遺伝子によってつくられるタンパク質すべての部分を暗号化している15ヌクレオチド――遺伝的暗号の「文字」――の塩基配列すべての権利を求めている。

この情報源は、引用分中のリンクを参照してください。
そして彼は以下のように結論します。

〔略〕この特許における請求は、もし適切に主張されたら、ほとんどすべての遺伝子におよぶ。この惑星上すべての人において。/自然を特許化することについて道徳的、実践的な議論があるが、この特許で認められる権利は、基本的には不条理なものである。


これら今年3月、つまり地裁での判決が出た段階でのスティグリッツらやゴーダクルらの見解は、司法省が「法廷助言書」を提出したいまでも有効だと僕は思います。