車内暴力

 二晩連続、電車のなかで、興味深いといえば興味深いことだが、決して愉快ではない経験をした。いわゆる車内暴力、もしくはそれに近いことだ。
 昨晩、ゼミの帰途、地下鉄で立っている初老の男性の後ろを通り過ぎたとき、僕のカバンが彼の身体に触れたらしい。「ベタベタするなッ! コミュニケーションがとれないだろッ?」と、男性は僕に向かってどなった。男性は明らかに酔っていた。孤独な都会人たちが家路を急ぐ地下鉄の車内で、ちょっとの接触が「ベタベタ」? 「コミュニーケーション」がとれない? その男性に同伴者はいないようだったが……。もちろん僕は彼を無視し、本を出して立ったまま読んだ。彼の右隣で。数駅で男性は降りた。
 ついさっき、JCcastの収録の後、大久保駅でYYjといっしょに中央線に乗り、席に並んで座って、
「『……』読んだんだって?」
「僕的には面白かったですよ」
 と、僕らは最近読んだ本について面白おかしくしゃべっていた。いつものことだ(ちなみにその直前、大久保駅のホームでは、僕らはツイッター上での不毛な争いについてしゃべっていた)。
 新宿駅に着くと、僕の左側に座っていた男性が立ち上がり、いきなり僕に「うるさいッ」と言いながらなぐりかかってきた。ぽこっと男性の左手が僕の頭に当たり、眼鏡がずれた。僕は何も言わずに眼鏡を直し、男性を見つめた。男性は「うるさい」ともう一度言った。明らかに酔っていた。僕もYYjも何も言わないでいると、男性は電車を降りた。
「……いいんですか?」とYYjが言った。
「……どうしようもないだろ」と僕は言った。「(僕が)20代だったら殴り返していたかもね」。しかし僕は20代ではない。
「僕はここで降りますので……」とYYjは言い、同じ新宿で降りた。YYjとしては、ふだんいっぱしの主張をする僕が何もしなかったのは面白くないのかもしれないが(笑)、言葉も使わずに殴りかかってくるような人物を相手に、殴り返したり、「僕らが何かしましたか?」と言い返しても時間と労力の無駄だろう。僕は、そんなことしたら明日の仕事にさしつかえる、と冷静に計算したまでだ。
 乗客の少ない大久保-新宿間では、まあ確かに、僕らの声は大きかったかもしれない。相対的に。しかし、いきなり殴りかかるほど僕らが騒がしかったかどうかは疑問だ。事実、新宿駅で乗客が増え、車内はにぎやかになり、読書やメールする人にとっては、うるさい環境になったははずだ。しかしもちろん、誰も誰かになぐりかかったりしない。
 四ッ谷駅で、警備会社の人らしき人が2人乗ってきた。さっきのようなことがよくあり、それで警備しているのですか、と尋ねてみようかと思ったら、2人は信濃町で降り、ホームに背中合わせで立った。無言のまま。
 僕は地元の駅で降り、改札の駅員に新宿駅での出来事を伝えた。「最近こういうことよく聞きますけど……」というと、制服の胸に「実習中」というワッペンを着けた若い女性の駅員は、そうなんですよ、というような表情をして、「申しわけありません、上司に伝えておきます」と言った。よくあることなのだ。
 実はこの数年、僕は似たようなこと――車内暴力やそれに近いこと――を何度も巻き込まれている。二晩連続というのはただの偶然かもしれない。相手はすべて、明らかに酔った、初老の男性だ。彼らは僕らに「最近の若者は……」と説教したいのかもしれないが、僕は彼らに「最近の中高年は……」と言い返したくなる。困ったことに、世間でカネと権力をより持っているのは、僕らではなく、彼らである。同じくくらいマナーの悪い人間集団が2つあって、片方はカネと権力を持ち、片方は何も持っていないとしたら、始末が悪いのはどちらだろうか。