坂道の途中で思い出したこと

 御茶の水での作業のあいまに神保町へ。しばしの時間、某喫茶店で、ある大先輩と、ややシリアスな件について話す。
 御茶の水への帰り道、楽器店がたくさんある坂道で、傘を喫茶店に忘れたことに気づく。出かけたときには雨が降っていたのだが、その後、晴れたときには傘を忘れがちである。明治大学を通り過ぎ、駅がもう見えている。僕は、まあいいか、安いものだし……と思って編集部に向かおうとしたのだが、ふと、あることを思い出し、神保町へ引き返した。
 あること、というのは、予備校時代、つまり名古屋の某予備校で、僕の英語の師といえるS先生の講義で聞いたあるエピソードだ(ちなみに予備校時代は、僕の人生のなかでも最も印象深い1年間だった)。S先生はあるとき、お兄さんといっしょにテレビを観ていた。トイレの洗浄剤か何かのCMで、洋式便器に100円玉が落ちるシーンに「あなたは拾えますか?」というナレーションが入った。S先生とお兄さんは怒り、「拾えるに決まっているだろッ! 100円だぞッ!」と口を揃えて、ミカンの皮をブラウン管に向かって投げたとか。
 僕はなぜか今日、神保町から御茶の水への坂道で、突然、その話を思い出した。僕は、S先生の教えを受けたにもかかわらず、いまだに英語が苦手だが、英語や翻訳への興味を抱き続けてきたのは、その先生の影響を否定できない。
 そして僕は某喫茶店に引き返し、店員さんに傘の忘れ物がないかを尋ね、それを受け取ってから、また御茶の水へ戻った(仕事を終えて地元に帰ると、駅のホームに2本の傘が転がっていた)。
 今日お会いした人も、僕が心から尊敬できる一人。多くのことを学んだ――いや盗んだ――が、いまいち活かせていないのがもどかしい。