「遺伝子治療がうつ病マウスを治療」など

 少しだけ。

もし政治家たちが敵対的なプレスに立ち向かう度胸を持てば、薬についての合理的な政策は、可能なだけでなく、一般的になるだろう、とディック・タバーンは言う。


 以下、主にこれから書くものに関連して。

脳内のある遺伝子の発現を強めることで、うつの症状が後退

 たとえばある患者が診察室へやって来て、この3週間、落ち込んでいる、と言う。1カ月前、彼のフィアンセは、別の男のために彼をふった。そして彼は、何もやる気が起きないという。彼は眠れず、食欲がなく、いつもの行動のほとんどすべてに興味がわかない、という。
 私は彼に、臨床的うつ病と診断すべきであろうか? それとも私の患者は単に、14世紀の僧侶トマス・ア・ケンピスが「魂の適切な悲しみ」と呼ぶものを経験してるだけなのだろうか? その答えは、精神医学的診断の批判者たちが考えているよりも複雑である。
 そうした批判者たちにとって、精神医学は、人々が沈んだ気分になる社会的、感情的コンテキストを検討し損ねることによって、通常の悲しみを医療化してきた――たとえば、失業したり、重要な関係の破綻を経験したりした後のことである。そうした診断的な過ちが、うつ病のインチキな大流行をつくり出した、と議論は続く。
 最近出た『悲しみの喪失』(オックスフォード、2007)という本で、アラン・V・ホルヴィツとジェローム・C・ウェイクフィールドは、何千年もの間、「原因のある」悲しみという症状は、「原因のない」それとは区別されていたと主張する。後者だけが精神疾患とみなされてきた。
 近代的な診断基準の登場とともに、医師たちは、患者たちの訴えのコンテキストを無視し、その症状だけに焦点を絞るようになった、と著者らは主張する――食欲不振、不眠、活動の低下、絶望、などである。大うつ病の現在の基準は、「内的な機能不全」による「異常な」反応と、外的な環境によって起きる「通常の悲しみ」とを区別することを、みごとに失敗している、と彼らは言う。そして彼らは、膨張したうつ病という概念をつくってきた既得権者たち――医師、研究者、製薬企業――を非難する。
 しかし、こうした一般的になりつつある理論にはわずかな事実がある一方で、それはたくさんの概念的、科学的問題を隠してしまう。
 一例を挙げると、もし近代的な診断基準が単なる悲しみを臨床的なうつ病に変換しているのだとしたら、私たちは、1950年代から1970年代にかけてのような時代の比率と比較して、うつ病の新しい症例の数が激増している、と思うだろう。しかし、アメリカやカナダの新しいいくつかの研究によって、深刻なうつ病の発生は、この数十年、比較的安定していることがわかってきた。
 次に、うつ的な訴えをもつ人が、うつ病を引き起こす喪失に反応していることを確かめることは簡単であろう。熟練した医師は、これはめったにないケースであることを知っている。〔略〕

 ……ふう。