『ロビン・フッド』、『トスカーナの贋作』

 昨日のことだが、シネコンのサービスデイを利用して(といってもマイナス200円だけだが)、夜、『ロビン・フッド』を観る。いわずと知れたリドリー・スコットラッセル・クロウという最強コンビの新作。この組み合わせだと、どうしても『グラディエーター』を思い出すが、同じ監督の『キングダム・オブ・ヘブン』のラストでリチャード1世が出ていたので、監督の中では同作の続編なのかもしれない。
 ロビン・フッドというと、僕の世代には、どうしてもケビン・コスナーの印象が強い。ケビン・コスナー版では、十字軍遠征から帰ってきたロビンはすぐに義賊になったが、このラッセル・クロウ版では、帰還から義賊になるまでの間が主に描かれる。リチャード1世があっけなく死んでしまい、ジョン王の下でいろいろとあるのだが、イングランドの財政難は、現在の各国の財政難・経済危機を思い起こさせた(これは基本的な映画の演出技術であろう)。
グラディエーター』でマキシマスがアウレリウスに語った台詞とほとんど同じことを、この映画ではロビンがリチャード1世に語っていた。ワンパターンこそ、作家性ということであろう。
グラディエーター』ほどのインパクトはなかったが、それでもアクションなどの迫力に文句なし。


 今日は仕事の合間に、テアトル京橋で『トスカーナの贋作』という映画の試写を観てきた。
 いわずと知れたイランの巨匠キアロスタミの新作。しかし中東色はまったくない。舞台はイタリア。主要登場人物はイギリス人とフランス人。台詞は、英語とフランス語とイタリア語が入り交じる。僕は、自分が外国語を不得意としているせいか、こうしたいくつもの言語が飛び交う“多言語映画”に弱い。美術ミステリーか何かと思っていたのだが、まったく違った。この映画で描かれる「贋作」は、美術品のそれではなく、人間関係におけるそれである。
 面白くないとはいわないものの、ちょっとついていけない話で、途中で苦痛になった。ホンモノとニセモノとの曖昧さというテーマは、映画や文学では繰り返されてきて、これからも繰り返す価値のあるものだが、それだけに作品化するのは難しいのかもしれない。
 ジュリエット・ビノシュはすっかりオバサンになっていた(笑)。


 今年はあと、『トロン:レガシー』などを観るつもり。大晦日には、毎年恒例のアレをやります。