佐藤泰志『海炭市叙景』

仕事のあいまをぬって、遅まきながら佐藤泰志海炭市叙景』(小学館文庫)を読む。いわずと知れた同名映画の原作である。いま半分ぐらいだが、すばらしい、と思う。

海炭市叙景 (小学館文庫)

海炭市叙景 (小学館文庫)

函館がモデルだと思われる地方都市・海炭市に生きる、ごく普通の人々、いや、どちらかというと人生がうまくいっていない人々がリアルに描かれている。僕も地方出身であるせいか、海炭市に迫る閉塞感は容易に想像できる。いや肌身で感じられる。
解説には、村上春樹と同世代で、妻子を残して自殺した、とある。それで思ったのだが……いま村上春樹の作品は、世界中で飛ぶように売れている。僕は日本人として、村上愛読者として、そのことを素直にうれしく思う。しかし……外国人が村上作品を通じて日本を知るのだとしたら、ちょっと複雑である。彼らが村上作品、たとえば『ダンス・ダンス・ダンス』とかを読んで、これが日本人なんだ、と理解したら、ちょっと待ってくれ、と言いたくなる。村上の描く日本や日本人は、決して典型的な日本や日本人ではない、と。
それはまるで、僕らがハリウッド映画を見て、ロサンゼルスやニューヨークに住む人々を見て、アメリカやアメリカ人を理解することと似ている。村上作品は日本のある側面を、ハリウッド映画はアメリカのある側面を、それぞれ描いているにすぎない。
……話がそれた。『海炭市叙景』に収められている短編小説群は、1988年から1990年にかけて書かれたものだという。ということは、作品の舞台も、同じころか、もしくは少し前である可能性が高い。つまりバブル期である。(僕が村上作品に接し始めたころでもある。)
しかし『海炭市叙景』に登場する人々は、バブルとは縁遠そうな人たちばかりだ。その違いは、単に都市と地方の差、というわけでもなさそうである。映画版『海炭市叙景』も同じ印象があが、映画のほうは時台設定を現在に近い時期に変更しているようだ。つまり制作者たちはそれで問題ないと考えたのだ。
いまや日本全体が『海炭市叙景』的になった、それが映画版『海炭市叙景』が多くの人々の心を捉えた理由ではないか、と主張したら言い過ぎであろうか。外国人には、村上春樹もいいけど、佐藤泰志も読んでほしい、と思う。日本人の大半は、こんな人々なんだよ、と。
僕は以前から、作家であれ政治家であれ、公けに言葉を発する能力や機会のある人々は、そうした能力や機会を持たないごく普通の人々からいくつかの意味で大きく解離しており、そのことはある意味で当然なのだが、同時に危険なことではないか、と思ってきた。
佐藤泰志の小説を読んで、もっと広く読まれてほしい、と思った。そういう僕自身も彼の作品を読むのはこれがまだ1冊目で、しかも途中なんだけど。


ところで芥川賞作家・西村賢太氏について、作品よりも人となりに注目が集まっている。「中年フリーター」と。文庫を含めて10冊ぐらいの本を出している人をフリーターと呼ぶのは無理があるのではないか。でもフリーターってことにしておいたほうが話題性はあるだろうな、とも思っている。