キャメロンではない『アバター』

 夜、渋谷のショウゲート試写室で『アバター』を観る。『アバター』といっても、もちろんジェームズ・キャメロンのそれではなく、これから公開される日本映画である。原作は小説らしい。地味な女子高生がケータイでのSNSにはまっていき、同時に現実社会での学園支配(?)を果たしつつ、親の復讐を果たす、というのがそのあらすじ。
 ケータイでのSNS、という小道具は、時代を反映していていいと思う。どうしても比較したくなるのは、一昨年の傑作『サマーウォーズ』と、今年の話題作『ソーシャルネットワーク』である。前者は、SNS的な仮想社会が舞台であり、そこで起きた事件に、伝統的な家族が立ち向かう。後者は、世界的なSNSをつくった者たちが主役であり、彼らのつながり(ネットワーク)とその崩壊が描かれる。僕的には前者は大傑作だった。後者も悪くはない。
 現代の10代たちの生態を描いているという点では、『告白』を思い出させないこともない。プレスキットでは「新時代のバトル・ロワイヤル」と宣伝されている。確かに深作の遺作を思い出させないこともない。登場人物たちが集合的に狂っている様子は、『ファイト・クラブ』を、幼くしたような感じだった。
アバター』で描かれている10代の登場人物たちの行動は、確かに現実の10代たちのそれを反映しているのだろうが、あまりにデフォルメが激しく、観ていて冷めてしまったことは否めない。『サマーウォーズ』は完全なフィクション、『ソーシャルネットワーク』は事実を元にしたハーフ・フィクション(?)でありながらも、ある種のリアリティを感じながら観ることができたのとは対照的である。いい題材をテーマにしているにもかかわらず、残念だ。
 しかし、あえて評価できる点を探してみよう。僕はここ数年、若い人たちが2人以上でいっしょにいるにもかかわらず、みんな自分のケータイの画面を眺めている、という光景に違和感を抱いている。すでに見慣れてもいるが。最近は、幼い子ども連れた母親や父親がケータイやiPhoneを眺めている、という光景も珍しくない。彼らは、目の前の人間や生活よりも、ケータイの画面経由の世界のほうを重視しているように見える。そんな彼らの姿はすでに珍しくないが、この『アバター』という映画で、SNSにはまり、集団的に狂っていく女子高校生たちと、それほど遠くない。そういう点では、『アバター』は、時代をうまく反映させていると思う。
 また、少しネタバレしてしまうと、映画の最後で、女子高校生たちはそれまでのSNSを捨て、新しいSNSにはまっていくのだが、その姿は、mixiから twitterへ、twitterからFacebookへと、活動場所を次々と変えていく、飽きっぽいネットワーカーと少しも変わらない。
 時代を反映しているのはいいのだが、問題は時代のほうがあまりに早く変容し、そこに生きる人々、つまりわれわれが飽きっぽすぎることだろう。この映画で過剰なデフォルメをともないながら描かれている10代たちの少女たちの生態も、すぐに時代遅れになるかもしれない。