接続詞の生-政治

いまさらですが、松本復興相の辞任について少しだけ述べておきます。先日、松本龍興大臣の発言を動画で観て、 http://bit.ly/ijAXAAこれはひどい。ヤクザみたいだ」とも思ったのですが、同時に僕は「こういう人って、いるよね」とも思いました。これくらいデリカシーのない人は、そんなに珍しくありません。僕が直接こういう言動を見聞きしたこともあります。違うのは、その場で語られることの公共性が高い否か、そこに記者がいるか否か、だけです。いま、「デリカシー」と書きましたが、この言葉は日本語に訳しにくいですね。「繊細さ」「心配り」「配慮」といったところでしょうか。「他者へのちょっとした気遣い」とも訳せそうです。意訳というか言い換えになりますが、「共感力」といってもいいかもしれません。
ところで、松本龍氏は、この発言でわかるように、デリカシーに欠ける「のに」復興相である、それはおかしい、信じられない、と思っている人が多いかと思います。
つまり「松本龍氏はデリカシーに欠ける」という言明と、「松本龍氏は復興相である」という言明、この2つの言明は多くの場合、逆接で結ばれているのでないでしょうか。僕も「復興相である」という点に着目するならば、そう考えるのが自然だと思います。しかし松本氏は復興相である(であった?)前に政治家です。
「復興相」を「政治家」あるいは「大臣」と置き換えて考えてみたらどうでしょうか。「松本龍氏はデリカシーに欠ける」と「松本龍氏は政治家である」はどのような接続詞で結ばれるでしょうか。その場合、「松本龍氏はデリカシーに欠ける」「ので」「政治家である」と、順接で結ぶほうが自然ではないでしょうか。「政治家である」と書きましたが、政治家になるためには、たいへんな努力が必要でしょう。多くの競争を勝ち抜いたに違いありません。どの担当であれ、「大臣」であれば、なおさらです。
いまここにAさんとBさんとCさんがいて、3人が競争状態にあるとします。Aさんにはデリカシーがあり、Bさんにはデリカシーがないとします。Cさんはどっちでもいいです。あるとき、Cさんが競争のストレスから病気になってしまったとしたら、AさんとBさんはそれぞれどのように反応するでしょうか。Aさんは競争を一時中断し、Cさんを助けます。Cさんが回復するまでは競争を再開しないでしょう。しかしBさんは? おそらく、普段通りの行動をたんたんと続けるでしょう。AさんやCさんに対して冷笑を投げかけながら。そうしたらどうなるか。競争から脱落したCさんや競争を一時中断したAさんは、その競争において、Bさんより、一歩も二歩も遅れることになります。そしてその差は、Bさんの勝利を導くでしょう。
つまり競争社会、あるいは結果の格差を積極的に肯定するネオリベラリズム社会においては、デリカシー、他者に対する気遣いなど、不要どころかむしろ邪魔なのです。この社会においては、勝利、というよりも、単に生き残りのために、死の中に廃棄されないために、デリカシーをあえて捨てている人だって多いようにも思えます。
話を元に戻すと、ようするに「松本龍氏はデリカシーに欠ける」「のに」「復興相(政治家、大臣)である」のではなくて、「松本龍氏はデリカシーに欠ける」「ので」「復興相である」と、みなすべきでしょう。2つの言明を順接「ので」で結んでみて見えてくる社会のあり方は、逆接「のに」で結んでみて見えてくる社会よりも、はるかに陰惨であるように僕には思えます。
というわけで、いつも「生-政治(バイオポリティクス)」についてばかり書いているので、たまには「生-(バイオ)」の付かない「政治(ポリティクス)」について書いてみようと思ったのですが、結局、いつものように生-政治について、書いてしまいました。