冷笑の腐敗臭

ある人が数日前にツイートしたことで、僕の心に突き刺さったものが、また痛み始めている。「今回の震災が、もし地震津波だけで原発事故がなかったら?」。考えてもしょうがないことだが、そういう世界を想像せずにいられない。
僕が頭のいい人たちから嘲笑されることは、僕ががまんすればいい。しかし原発をめぐって、いわゆるスイシン派とハンタイ派が、トーンは人それぞれでありつつ(「スイシン派」「ハンタイ派」とひとくくりにするのは乱暴すぎる)、お互いを、相手の目すら見ずに非難し合っているのを見るのは、ほんとうに空しい。さらにいえば、どちらにも属さない(らしい)人たちが、よくいえば高いところから俯瞰して、悪くいえば上から目線で、自分の学識を開陳しつつ、そうでない人たちを冷笑する(その方向性は傾いていて、冷笑はおおむね学識のない人、「正しく恐がる」ことができずに「恐がり過ぎている」(ように見えるらしい)人たち、そしてハンタイ派に一方的に浴びせられている)。そういう光景には怒り以上に悲しみを感じる。学識(の高低)と人間性(の高低)とは関係などないはずだが、相関があるように思えてしまうときがある。
こういう光景は、3.11以前にもあることはあったが、原発事故はそれを顕在化させ、よりひどくさせてまったようだ。ここ――津波も被っておらず、放射線も高くない首都圏に住み、いまも将来も原発の風下に住んだり原発で働いたりする可能性のまったくない人々の言説が力を持つ2つの業界――は、ほんとにひどい世界だ。人間の精神が出す腐敗臭は、被災地の港で僕が嗅いだ腐敗臭よりもずっとひどい。
でも、好むと好まざるとにかかわらず、つき合わざるをえない。