「ワシントンナショナルギャラリー展」

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午後、六本木の国立新美術館で「ワシントンナショナルギャラリー展」 http://bit.ly/fc47Td を観る。広告コピーにあるように、印象派とその前後の作品が展示されている。ヨーロッパ、いやフランスで制作され、アメリカで保管されている作品を日本で観る、というのもなかなか興味深い体験であろう……か。
作品は、印象派登場まで、印象派、紙の上の印象派(油絵以外の印象派)、ポスト印象派以降、とほぼ時系列で展示されていて、美術史に疎い者にとってはありがたかった。僕が知っている画家では、クールベ、マネ、ピサロドガ、モネ、ルノアールセザンヌゴーギャンゴッホロートレックといったところ(ゴーギャンゴッホロートレックぐらいになると、素人ながら、印象派との距離感が大きすぎるような気もしたが)。
僕の“印象”を書きとどめておくと、ポスターやチケットにも使われているマネ「鉄道」は、タイトルの鉄道が描かれておらず、煙だけが親子らしい2人の背後に描かれていて、また列車なり駅なり線路なりがあるはずの位置も不明確で、意味深げであった。ドガ「舞台裏の踊り子」は小さくてびっくり。美しい主題なのでもっと大きく描けばいいのに、とよけいなお世話か。ルノアール「ポン・ヌフ、パリ」は、彼が生きた当時のポンヌフ橋を描いただけの作品だが、学生時代のヨーロッパ旅行、映画『ポンヌフの恋人』、そして新橋にある立ち食いそば屋「ポン・ヌッフ」などをとりとめもなく無意味に連想してしまった。カサット「青いひじ掛け椅子の少女」は、ソファの青さが鮮烈。セザンヌ「『レヴェヌマン』紙を読む画家の父」は、保守的なはずの父をあえて進歩的な新聞を読んでいるように描いた、というエピソードが興味深かった。ゴッホの「自画像」は、彼のほかの自画像と同じく陰鬱なものだが、死の直前のものとあって、なおさら陰鬱に感じた。(ところで印象派の作品には、港町や海岸を描いたものがわりと多い。港、海岸、船などを、絵のなかで観るだけで、僕は気仙沼などの被災地を思い出してしまう。)
非専門家なりに総じていえば、わずか1500円でこれだけのものをまとめて観られたのはたいへんよい企画だと思う。休日のわりには空いていたしね。
ところで、おそらく震災の影響で、いくつかの絵画展を見逃してしまっている。フェルメールレンブラントを愛知県で観ようと思っているのだが、うまくタイミングが合うか…。


追記:
今日は3.11後初めての8月6日でした。核との共存、その是非を考えるべき日だったかもしれません。福島第一原発事故は、日本だけで3度目の大規模被ばくだと思うと、3月11日も、8月6日や9日と同じ意味を持つようになるのでしょう。