『大津波のあとに』、『槌音』

昨夜のことだが、渋谷のアップリンクで、ドキュメンタリー映画『大津波のあとに』と『槌音』の上映会+報告会を観てきた。会場で岩本太郎さんとばったり会った。先日浪江町の津島でお会いしたフォトジャーナリスト山本宗補さんとも。渋井哲也さんもお見かけした。こんなこともある。
どちらの映画も3.11を東京で経験した若き映像作家が、3月の段階で、それぞれの動機で被災地に入って撮影した素材を作品化したものらしい。
森元修一監督の『大津波のあとに』は、震災から比較的早い段階で仙台、石巻、松島などを取材した記録である。僕も訪れた大川小学校も紹介されている。僕は8月に同校を訪れたとき、見つかった遺品を整理し、きれいにして、名前のあるものは遺族に渡せる状態にするという作業に取り組むボランティアの人たちに会ったが、森元監督が訪れたのは、まだそれらが大川小学校にあるときだ。遺族らの生の声のリアルさには、言葉を失う。場所は失念したが、ある被災者は、親の夢を見て、まだ生きているかもしれないと思い、自宅のある場所に戻ってきたという。登場する人々の態度は、おおむねしっかりしていて、監督やカメラに対して好意的だが、もちろん否定的な反応をした人もいるのだろう。取材する側と取材される側、双方にとって辛い経験だったと思う。僕もささやかながら経験があるのでわかる。
大久保愉伊監督の『槌音』は、監督が故郷の大槌を取材……いや、取材ではなく、食料などを持って故郷に戻り、流された実家を含む大槌の街を、カメラではなくスマホで撮影した動画を編集して作品化したものだ。監督は3.11以前の大槌、とくにお祭りの様子や自分の家族を撮影した動画を所有しており、それが現在の大槌の様子と
重ね合わせられる。とくに瓦礫の山となった現在の大槌の映像に、震災前のお祭りなどの音声が重なったシーンなどが深く印象に残った。なるほど、「槌音」というタイトルは、このことらしい。しかしながら、自分の家族を含めて、被災者の声はいっさい聞かれなかった。監督が、客観的な立場の映画監督というよりは、被災者の家族であるということを考えれば、それも無理なかろう。
両監督とも、3月以降も定期的に現地入りして、撮影を続けているらしい。両作品とも荒いつくりにもかかわらず、いや荒いつくりだからこそ、3月時点での現地の様子を生々しくリアルに伝えることに成功している。なお僕は5月に初めて被災地を訪れたとき、港町感じたあの独特の匂い――潮の薫りにまじった腐敗臭――を思い出してしまった。どちらの作品も広く観られてほしい。(そういえば森達也さんもかなり早い段階で被災地に入って撮影しているはずだ。テレビなどで使われたという話は聞かない。劇場公開作品にするのだろうか。気長に待つことにしよう。)