『夜と霧』

諸事情で、というほどのことではないが、巨匠中の巨匠アラン・レネ監督の新作を観ることになりそうなので、その予習(?)として、過去の作品を観ておこうと思った。自室にいちばん近いTSUTAYAには期待できないので、二番目に近い隣町の店舗に行ったところ、『夜と霧』があったので借りてきた。(ほんとは『去年マリエンバードで』を観たかったのだけど、置いていなかった。)
『夜と霧』は周知の通りアウシュビッツ収容所のドキュメンタリー映画で(ヴィクトール・フランクルの同名の著作も有名だ)、レネの出世作らしい。たぶん過去に一回は観たことがあるはず。しかし今回、わずか30分ほどの小品であることに気づいたので、もしかすると初めてかもしれない。なおアウシュビッツ収容所そのものには、大学生のときに行ったことがある(ちなみにそのほかの収容所跡にも行ったことがある)。
この映画では、よく知られているように、死体や収容所施設の跡など、全編に渡って目をそむけたくなるシーンがこれでもかというほど続く。
最も印象に残ったのは、囚人たちから集めた髪の毛の山やそれからつくられたという毛布(絨毯?)などだ。死体からせっけんをつくることも試みられたらしい。僕らは、こうした「ナチスの蛮行」としての「人体の資源化」には、憤りや悲しみ、嫌悪を感じる。しかし、もっと洗練された「人体の資源化」についてはどうだろうか。
映画は戦後10年経った収容所跡を映し、ナチスはいまも我々の近くにいる(大意)、というナレーションで終わる。この映画を観ると、見たくもないものをレネらによって半ば強制的に見せられた、と思わなくもない。そして誰も目を向けていないからといって、ある物事や人が存在しないわけではない。
イタリアの作家プリーモ・レーヴィは、アウシュビッツでの収容体験を手記「これが人間か」としてまとめた(邦題『アウシュビッツは終わらない』朝日選書)。我々が住む現代社会もまた、実はどこかで「これが人間か」と問うべき所業を行ってはいないだろうか。『夜と霧』は観た者にそう自問させる。

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録