環境問題と優生思想(6):『チェルノブイリ・ハート』

本日の昼間、渋谷のヒューマントラストシネマ渋谷で、ドキュメンタリー映画チェルノブイリ・ハート』 http://t.co/SNbdW4C を観た。この映画についてはたいへんデリケートな部分を含んでいるので慎重に語らなければいけない。
この映画は英語圏では2003年に公開されており、2004年にはアカデミー賞の短編ドキュメンタリー部門を受賞した。監督はマリアン・デレオという人で、NPOチェルノブイリの子ども国際プロジェクト」の協力を得てつくられている。
タイトルの「チェルノブイリ・ハート」とは、チェルノブイリ事故の影響と思われる心臓の先天障害のこと。同タイトルの短編映画と「ホワイトホース」という作品が合わせて上映された。両方合わせて1時間ほど。
前者では、カメラはウクライナベラルーシの先天障害児を追う。ベラルーシのある地域の医師は、ここで生まれる子どもたちのなかで、健常で生まれるのは15%ていどだ、という。また、ある医療機関の人物はチェルノブイリ事故の後、先天障害児の出生が25倍に増えた、と述べる。証言やテロップを疑うわけではないが、せめてグラフの1つでも見せられなかったのだろうか。時系列で障害児の発生率の変動を示す折れ線グラフや、高濃度の放射線が検出される地域とそうでない地域との発生率の違いを示す棒グラフぐらい、簡単につくれるであろう。そのことを示す、確たるデータがあれば、の話だが。
カメラが追う先天障害は、心臓のものだけではない。医学的なコンセンサスが広く認められている甲状腺がんのほか、水頭症や手足など身体の変形、知的障害など。しかし数値的なデータは、ほとんど示されない。
また、いくつかの証言が気になった。ある証言者は、水頭症の子どもを指して、アメリカでは手術されるけど、ここには施設がない、と言う。また取材対象になった孤児院のような施設では、健常な子どももあずけられている。たぶん社会的な問題ね、とある証言者は言う。その子どもは引き取り手が決まっているという。
ところで日本にも、重度の身体・知的障害児を集中的にケアするための施設がある。僕はそうした施設で働く人に話を聞いたことがある(行ったことはない)。またある事情があって、先天障害の事例を写真付きで集めた専門書や専門誌をまとめて読んだことがある。それだけでも辛い経験だった。原発事故がないとき、カメラがそうした施設を撮影したとする。それを観た人々は、たぶん心を痛めるだろう。いや、「心を痛める」だけであろう。幸いにも、というべきか。しかしその取材が、原発事故の起きた後で、現場に近い施設でだったら、どのようなイメージをもたらすだろうか。たとえ事故前と事故後で発生率に変化がないとしても、多くの人はそれを原発事故と結びつけるだろう。
もう1つ気になることがあった。こちらは映画の問題というよりも、観客の問題かもしれないが、いちおう述べておく。この映画に登場する人々は、ベラルーシウクライナの先天障害児たちに深い慈悲を示す。そのことはいい。世界に彼女らのような人々が数多くいることを心から祈る。しかし観客のなかには、先天障害児たちの存在を、恐怖の象徴としてとらえる者もいるだろう。子どものいない僕がいうと無責任に聞こえるかもしれないが、確かに、子どもが健康であるのに越したことはない。また、放射能や化学物質による先天障害を、生まれてくる子どもたちに対してふるわれた暴力の結果だと考えることも可能であろう。しかし、先天障害を決してあってはならないもの、と、僕たちはどこかで思っていないだろうか。注意してほしい、いま僕は「僕たちは」と書いた。僕も例外ではない。そうした考えのことを「内なる優生思想」と呼ぶことがある。誰でも心のなかに抱えているものだ。しかしそれが、いま生きている先天障害者の存在そのものを否定するような言動に結びついてしまっては、やはり問題ではなかろうか。原発事故や枯れ葉剤など、環境問題をテーマにしたドキュメンタリー映画を観るたびにおなじことが気になる。(鎌仲ひとみ監督の『ヒバクシャ』では、映画自体は先天障害の発生についてはわずかしか触れていないが、なぜかそれを強調する記事を読んだことがある。推測だが、鎌仲監督はこの問題に自覚的なのだろう。)
では、僕はこの映画やそのメッセージを完全に否定するのか。いやしない。繰り返すが、この映画に登場する人々の姿には、心を打たれる。大規模で強制的な退避措置がなされた地域の様子を知ることができる映像は、たいへん貴重だ。上記のような論点を念頭に置いて見れば、決して悪い作品ではない。しかし問題は、そうした論点を念頭に置く人が多くない、ということかもしれない。


追記その1:
この映画は、災害というものがすべての者を平等に襲うわけではなく、経済的弱者(貧困層)や生物学的弱者(障害者)にしわ寄せが向かう、ということをよく描いていた。このことは積極的に評価したい。


追記その2:
2009年に「放射線チェルノブイリで男性に心臓弁疾患を誘発」という論文が書かれているようです。以下、アブストラクトを訳出しておきます。症例報告でしょうか。

ある若い男性が新型の心雑音を示した。病歴が示すところでは、この患者は1986年に原発の爆発事故が起きたウクライナ出身である。診察によって、僧帽弁逆流と大動脈弁狭窄症による心雑音が明らかになった。経食道超音波心臓図検査によって、僧帽弁と三尖弁の深刻な石灰化がわかった。心臓弁置換術の後、弁の病理学的検査によって、深刻な異栄養性石灰化と、たとえば放射線に誘発される弁疾患のような慢性炎症過程を思わせる変化が見られた。若い男性におけるそのような深刻な弁疾患を説明する病因論が欠如するなかで、この疾患は、原子炉からの強い放射線被曝が深刻な弁疾患を引き起こしたということのみが推測されうる。

http://www.onlinejase.com/article/S0894-7317%2809%2900309-5/abstract