『猿の惑星』再考

猿の惑星』が『猿の惑星 ジェネシス』としてリメイクされたものがもうすぐ公開されるとのことなので、DVDで『猿の惑星』を超ひさしぶりに観る。(僕は何をやっているのだろう…。)子どものころテレビで放映されるたびにわくわくしながら観たシリーズの第一作目。細かいところは忘れていたし、当然ながら、そのときよりもいまのほうがリテラシー(?)があるはずなので、どう観られるかなあと思って観てみたところ、非常に面白かった。
主人公たちは恒星間宇宙旅行に出かけていて、ある惑星に不時着する。彼らは自分たちが地球を出てから数千年経っていることは自覚している。その惑星では、サルが人間のように暮らしていた。一方、人間は野生動物のように扱われていた。主人公テイラーは人間たちとともにサルに捕まるが、そのさい喉を撃たれてしまい、話せなくなる。そのため、英語を話すサルたちに、自分が話せることを伝えるのに苦労する。
サルたちの世界には、宗教らしきものがあり、科学らしきものもある。興味深いのは、サルたちの間で交わされる論争で、科学論争のようでもあり、神学論争のようでもある。サルたちの少なくとも一部は、人間が言語能力を持つことそのほかを知っているようであり、なぜかそれを隠そうとしている…。
この映画におけるサルたちは、現実社会、というか1960年代のアメリカにおける黒人、あるいは日本人を暗に意味している、という批評があったように記憶している。しかしサルたちの存在が意味しているものは、人間そのものではなかろうか。映画ではサルたちは暴力的な存在として描かれるが、そのサルたちの1人(?)は「聖典」を引用しながら、人間の暴力性を指摘する。自らの暴力性に気づかず、他者の暴力性のみを問題視するその姿は、身勝手な人間そのものであろう。
…ということで、『〜ジェネシス』を観る前に、残り4作、いやティム・バートンのを入れて5作すべて観られるだろうか…というか、そんなことする意味あるのか。