『ニーチェの馬』

夜、東銀座の東劇の3階にある松竹試写室で、『ニーチェの馬』という映画の試写を観る。歴史上の人物を主人公にしながらも、あまり史実にはこだわらずに自由に創作された映画はたくさんあって、これもその1つなのかなと思ったら全然違った。
ニーチェは晩年、イタリアのトリノで、鞭で打たれる馬を守ろうとしてその首にすがりながら泣き崩れ、そのまま発狂して2度と回復しなかった、という逸話が伝えられている。この映画は、ハンガリータル・ベーラ監督が、長年仕事をしている作家・脚本家がある場所でその逸話を朗読したのを聞いて、その馬がその後どうなったのかを描きたいと思いついて撮影したものだという。
ニーチェはドイツ人、トリノはイタリアの都市のはずだが、使われている言葉はおそらくハンガリー語である。しかし、そんなことはどうでもいいと思えた。馬は町からも村からも離れた場所に住む、貧しい農夫とその娘に飼われているものだった。映画は親子の6日間を淡々と追う。全編モノクロで台詞はきわめて少ない。ごくわずかにナレーションがあるものの、不明瞭なことは多い。
農夫とその娘は、ほとんど会話もなく、馬の世話をし、井戸から水を汲み、薪を割ってそれを炉に入れる。家の外ではずっと強い嵐が吹いている。何回か描かれる食事はすべて茹でたジャガイモ1個のみ。彼らは手で皮をむき、塩をつけて食べる。毎朝、「パーリンカ(焼酎)」と呼ばれる酒を飲む。父のほうは左手を動かすことができない(おそらく卒中の後遺症であろう)。
2日目だったか、ある男がやってきて、パーリンカをわけてくれないか、と言う。農夫が、なぜ町で買わないのか、と聞くと、男は、町が変わり始めていることを伝える。その説明はきわめて抽象的なのだが、人間によってこの世界が滅び始めており、しかもそれに神が荷担している、と言う。男の話はニーチェ、とくに『ツァラトゥストラ』を想起させる。実際、監督はプレスキットのインタビューで、ニーチェではないが、「ニーチェの影」だと述べている。
やがて馬が飼い主のいうことを聞かなくなり、エサを食べなくなる。ある夜には、農夫は、58年間聞こえていた「木喰い虫」の音がしない、と言う。そして井戸が涸れる。世界が変わり始めているらしい。農夫は娘に、荷物をまとめろ、ここには住めない、と言う。2人は荷物を荷車に載せ、家を出る。
このとき奇妙なのは、荷車を引いているのは親子2人で、馬はむしろ彼らに引かれている。おそらく馬はもう働けなくなってしまっているのだろう。彼らは家を出たものの、すぐに戻ってくる。理由ははっきりとしないが、荷物を持ち、馬を連れての旅に体力的な限界を感じたのかもしれないし、もしかしたら崩壊した町を見て絶望したのかもしれない。
やがてランプに火を付けることもできなくなる。油は入っているのに。映画の最後で、2人は水がないため茹でることができなかったと思われるジャガイモを食卓に置き、父はそれを生で食べ、娘は見ているだけである。映画はそのまま終わる。
観る前にプレスキットを読んでその内容と長さ(2時間半!)を知り、こりゃ途中で居眠りするなあ、と思っていたら、結局そんなことはなく、最初から最後まで、スクリーンで何が起きているかをじっと見続けることになった。ニーチェの逸話から生まれた映画とのことであったが、終末期もののような雰囲気もある作品だった。いや、終末期ものにしか見えない。モノクロで台詞が少ない終末期ものというと、リュック・ベッソンが有名になる前に撮った『最後の戦い』が思い出されるが、それともまた違った味わいがあっtた。
監督はハンガリーでは巨匠らしいが、日本で知られているとはいえない。そもそもハンガリー映画を観る機会もあまりない。いい映画経験だったと思う。

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)

ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)