恒例! 2011年に観た映画ベスト3

今年はのんきに映画を観るような年ではなかったのですが、それなりに多くの作品を観たような気もします。以下、順不同で――。


●『わたしを離さないで』(マーク・ロマネク監督)
いうまでもなくカズオ・イシグロのベストセラー小説を映画化したもの。
僕は映画を観てから原作を読むというパターンが結構多いのだが、この作品に関しては、先に原作を読んでいる。この小説を読んだ人、あるいはこの映画を観た人(そして僕のことを知っている人)は、僕がこの小説を読んだ理由を察していただけるかもしれない。昨今、生命倫理的なテーマは、小説・マンガ・映画を問わず、フィクションの世界では、もはや一大ジャンルになりつつあるようだ。それともそれは僕の思い込みだろうか。
どのレビューでも、この映画の“オチ”は、当然ながら書かれていないが、僕は事前に原作を読んだため知っていた。残念ながら、“オチ”に驚く、という楽しみは得られなかった。
原作では、作品世界の秘密がなかなかはっきりと書かれず、徐々に徐々に明らかになっていく。そのあたりのことが、映画でどのように描かれるのか楽しみだったのだが、わりと早い段階で、しかもわかりやすいかたちで明らかにされてしまった。映画というメディアの特性上、ある程度の単純化は仕方ないかもしれない。それでも読む者,いや観る者に、ある程度の読解の努力を強いる、という姿勢は、原作を引き継いでいたと思う。映画にしては、よくやっていたはずだ。僕は、あまりにも「わかりやすい」映画を観ると、冷めてしまう。バカにしてんのかよ、と思ってしまうのだ。そういえば、『わたしを離さないで』と非常によく似たテーマを扱った映画で、『アイランド』という作品があった。観客はバカ、という前提でつくられたかのような映画だった。『わたしを離さないで』は、『アイランド』を良心的につくり直したもの……と表現してしまいたくなったが、いかがなものか。
それはともかく、キャリー・マリガン演じるキャシーというキャラクターはすばらしい。彼女は、悲劇的な運命をうすうすと知りつつも、それに対して彼女なりの抵抗と受容を示す。その姿はあまりにも美しい。青春ものやSFもの――あるいは“閉鎖社会もの”――の要素も入れつつ、そのどれにも収まらない逸品に仕上がっていたと思う。


●『ミラル』(ジュリアン・シュナーベル監督)
この映画の監督は『潜水服は蝶の夢を見る』のジュリアン・シュナーベルだが、世間的には、主演が『スラムドッグ$ビリオネア』のフリーダ・ピントであることが売りであろう。しかし僕としては『シリアの花嫁』のヒアム・アッバスが出ていたことも注目したい。原作は、ニューヨーク在住のパレスチナ人ジャーナリスト、ルーナ・ジブリールの反自伝的小説。フィクションではあるが、自分の経験や取材をベースにしたものらしい。残念ながら未訳のようだ。
4人の主要キャラクターのうち、ミラルが原作者の投影だろう。そして監督のシュナーベルは、名前からわかるようにユダヤ人である。この映画自体にも、イスラエルの資本が入っている。イスラエルという国家に悪い感情をもつ人は僕を含めて少なくないだろう。しかし、『シリアの花嫁』、『戦場でワルツを』、『迷子の警察音楽隊』など、イスラエル発の映画は、どちらかというと反戦的メッセージが強いものが多いように思う。『ミラル』も例外ではない。
主要登場人物は、ヒンドゥ、ナディア、ファーティマ、そしてミラルという4人のアラブ人女性。それぞれの人生と、パレスチナイスラエルの複雑で重い歴史が交錯する。とくにナディアとファーティマの物語は見ていて少し辛くなるものだが、人生とはそういうものなのだろう。物語はオスロ合意とヒンドゥの死で幕を閉じる。
少し残念だったのは、現実にはアラビア語でなされていたと思われる会話が英語でなされていたこと。ヘブライ語はそのままだった。原作が英語で書かれたものだからか(後述するようにそれは間違い)、英語圏のマーケットを意識したためか。
原作もいずれ訳されるだろう……と思いたいところだが、昨今の出版事情だと難しいかもしれない。いまプレスキットを確認したところ、原作者であり、主人公のモデルでもあり、脚本も担当したルーラ・ジブリールは、イタリアで学位を取り、イタリアでキャリアを重ねてきた人らしい。そういえば、映画の最後でミラルはイタリアへの留学が決定したし、僕の記憶に間違いがなければ、原作は最初にイタリアで出版されたことがエンドロールで記されていた。ということは、原作はイタリア語で書かれたのか(監督が読んだのはその英訳か)。イタリア資本が入っていることもうなづける。
いずれにせよ、英語が使われていること、背景となる複雑な政治事情を知らないとわかりにくいであろうことを差し引いても、素晴らしい出来映えの作品であり、多くの人に観てほしいと思った。


●『ウィンターズ・ボーン』(デブラ・グラニク監督)
この映画をひと言で表現すれば、17歳の女の子が主人公なのに彼女が最初から最後まで1度も笑わない物語、である。いかに壮絶な世界が描かれているか、想像していただけるだろうか。
舞台はミズーリ州の、貧しい僻地といっても過言ではない地域。17歳のリーは、幼い弟と妹、心を病んでしまった母親と暮らしている。その暮らしぶりはあまりに貧しく、時代が現代なのか疑いたくなるくらいだ。そこに保安官がやってきて、覚醒剤の製造で逮捕され、いちど釈放された父親が裁判に出席しないと、保釈金の担保になっている家と森を取り押さえる、と彼女に告げる。彼女は父親を見つけようと、伯父や父の知人と思われる人物を訪ね歩くが、みな一様に冷たい。首を突っ込むな、知らない方がいい、と言われ続ける。彼女は家族を養おうと、軍隊に入ろうともするが、両親の許可が必要なため、その希望も阻まれる。(アメリカで、彼女のような境遇な人々が進んで入隊を希望することについては、説明不要であろう。)やがて彼女にも暴力がふるわれる。この土地ではいわゆる法律は役に立たないらしい。そして父の運命も明らかになる……。
彼女が経験したことは、とても17歳の女の子のそれとは思えない壮絶なこと。宮台真司氏はビデオニュース・ドットコムでこの映画について、日本映画の『誰も知らない』を思い出した、と言っていたが、それもうなづける。僕は『海炭市叙景』や『悪人』を思い出した。僕は、外国人が映画を通じて日本を知りたいのならば、東京を舞台にした作品だけを観ていてはだめで、ぜひとも前述2作品など地方を舞台にした作品を観るよう薦めるだろう。それと同じように、映画を通じてアメリカを知りたいならば、ニューヨークやカリフォルニアを舞台にした作品ばかり観ていては一面的であろう、おそらく。
原作のダニエル・ウッドレル『ウィンターズ・ボーン』(黒原俊行訳、AC Books)も素晴らしかった。


○総評
前述した通り、今年は映画どころの年ではなかった。しかし、その反動で、後半にはそれなりの本数を観たような気がする。また、DVDも含めて、地震津波原子力にかかわる映画をずいぶん観た。
しかし、地震津波原子力に関係ない作品でも、観ながら3.11を思い起こすことが多かった。上述の3作品、いずれにおいても、少数者を犠牲にしながら成立する社会のいびつさを感じずにはいられなかった。3作品とも女性が主人公であることも、たぶん偶然ではないだろう。
来年もよい作品にめぐり合いたいものです。みなさま、よいお年を。