『オール・アバウト・マイ・マザー』再訪

か「例の企画のネタ映画をまた観ましたよ。DVDで」 
さ「今度は何を?」 
か「『オール・アバウト・マイ・マザー』」 
さ「アルモドバルね。あんたこういう映画好きでしょ」 
か「まあね。この映画観るのもたぶん3回目」 
さ「ほう。で、どうだった?」 
か「映画として秀逸なのはいうまでもないけど…例の観点からでしょ?」 
さ「そ。臓器移植」 
か「最初のほうだけだったね。舞台はスペイン。主人公はマドリッドで臓器移植コーディネーターをしている女性で、息子と2人で暮らしている。息子は作家志望だったのだけど、ある日、クルマにはねられて脳死になってしまう。で、臓器提供することになる」 
さ「彼はドナーカード持っていたの?」 
か「いやそれははっきりしない」 
さ「スペインでは家族同意だけで、臓器摘出できるのかな?」 
か「どうもそうみたい。息子が死ぬ前に、彼女の職場の人たちが研修みたいなことをしているシーンがあって、その教材用ビデオでも、医師が脳死者の家族に臓器提供の意志があるかどうかを訪ねるシーンがある。しかもそのなかで夫が脳死になった女性を、彼女が演じいてる」 
さ「皮肉だね。現実では夫じゃなくて息子だけど…」 
か「そう。また『演じている』というのがポイントで、それがその後のストーリー展開への伏線になっている」 
さ「そのことはいいや。臓器移植については?」 
か「彼女は息子の心臓を移植された人を探り当ててしまう」 
さ「職業的に可能なんだよね、きっと」 
か「たぶんね。でも知人に、その人のことを知っても傷つくだけよ、と諭されて、追ったりはしないことに」 
さ「なんだ、つまらない。ふつうの人と同じじゃんか」 
か「ま、そうなんだけど、臓器移植がメインテーマの映画じゃないからね」 
さ「臓器移植の話はそれだけ?」 
か「そう。その後、彼女は息子の父親に会いにバルセロナへ」 
さ「そこでいろんな人と出会うんだよね」 
か「むしろ映画はここから盛り上がる」 
さ「もし彼女が、息子の心臓を移植された人になんらかのかたちでかかわっていく、という話だったら、あの映画に似ているね」 
か「あの映画って? 
さ「あんたが映画評論家デビューしたアレ」 
か「映画評論家デビューなんてしていないよ……あ、『21グラム』ね。初めてパンフレットに寄稿した映画」 
さ「もうパンフには解説書かないの?」 
か「頼まれたらいつでも書くよ」 
さ「なるほど。で、『オール・アバウト・マイ・マザー』は、われわれの企画には使えそう?」 
か「うーん、あえていえば、臓器移植法の改定の話をするのにいいんじゃないかな?」 
さ「日本の臓器移植法ね。改定で、家族同意でも臓器提供できるようになった、と」
か「臓器摘出できるようになった、ともいうけど」 
さ「そういうところにはカラむね」 
か「まあね。でも考えさせられる映画ですよ。家族ってなんだろ、と。この映画に出てくるのは、性転換者だったり、エイズに感染した尼さんだったり、同性愛がほのめかされる女優だったり、そういう訳ありの人たちが愛し合い、いたわり合い、そのなかで、息子を失った主人公もだんだんと再生していく」 
さ「いい話じゃない」 
か「いい話だよ。そのなかに『家族同意による臓器提起出』がある」 
さ「ああ、あんたがひっかかっていたのはそれか…」 
か「まあね。確かに、脳死になった者の家族が、臓器摘出に同意し、自分の家族の命がどこかでまた生きていると思うことで救われることもあるかもしれない。でも、「脳死」って微妙な状態ですよ。ご存じかと思うけど、脳死者って触ると暖かいし…」 
さ「動きますよね」 
か「そう、ラザロ徴候。その辺りの話をしだすと長くなるからやめるけど、人によっては、そのような状態になった家族のことを、そう簡単に死んだとは認められないでしょう。映画では、彼女は息子は死んだとすんなりと認め、臓器提供に応じたことになっている。そこのところはあまり詳しく描かれていないんだけど、ちょっと気になったなあ」 
さ「なるほど。でもいい映画なんでしょ?」
か「いい映画ですよ。いい映画というよりは、いい人たちだな、って言うべきかな。あれだけの寛容さを持つ彼女が、息子の死を簡単に認めちゃうのかなって気が…」 
さ「まあ、それはあんたのいつもの…」 
か「求めすぎ」 
さ「そういうこと」 
か「やっぱりそうか。そういうことを考えさせてくれるという意味では、やっぱりいい作品ですよ」 
さ「そうですね。僕らのトークもそのための材料を提供していく場にしましょう」 
か「そうしましょう」 


(とりあえず了。いつものように「か」と「さ」は架空の人物です(笑)。)