近況(「ふくしまフォーラム」ほか)

昨日は国士舘大学21世紀アジア学部(町田キャンパス)の非常勤「生命科学と21世紀社会」で、再びiPS細胞について解説した。土曜日に「振替授業」があるのだが、やむをえず休講にすることを伝えると、教室じゅうが湧いた。「君たち、休講がそんなにうれしいの?」というと、また爆笑。そこは笑うところじゃねーつーの! 


終了後、そういえば夕方に試写があるはずだと思っていたら、試写状を忘れてしまった。しかたなく、いつものようにピカデリー、テアトル新宿、新宿シネマート、バルト9、新宿武蔵野館を周り、少し迷った後、武蔵野館で『サニー 永遠の仲間たち』を観る。僕はいわゆる“韓流”とは相性が悪くうえ、タイトルだけでは僕が興味を持つものとはとても思えない作品だが、斉藤勝司さん@naturefront1941がイチオシしていたので、観てみた次第。
僕と同世代の主人公の女性が、ひょんなことから高校時代の親友ががんで余命わずかであることを知り、かつての仲間たちを探し、再会する。物語は2011年現在と1986年当時を交互に描くのだが、斉藤さんがいっていたように、その切り替えは絶妙。もちろん主人公たちとは関係ないのだが、1980年代の韓国が「政治の季節」であったことも背景として描かれているし、当時の洋楽や洋画がさりげなく小道具として使われていたのもなかなかよかった。韓流独特のギャグには、あいかわらずまったく笑えなかったのだが、まあいいか、という感じ。いつものようにディスクユニオンプログレ館でCDをあさってから帰室。


時間が逆になってしまったのだが、6月30日(土)と7月1日(日)には、いわき市「震災と放射能汚染後をどう生きるのか ふくしまフォーラム第1回」というイベントに、参加というか、取材というか、ようするに参与観察してきた。先輩同業者・長岡義幸さん@dokuritukisyaに教えてもらうまでまったく知らなかったのだが、内容が興味深そうなので、急遽、行くことに。テーマは幅広く、僕は最初と最後の全体会のほかに、1日目は障害者問題について、2日目は医療についての分科会に参加した。前者では、車いすの女性の人の司会で、透析患者、ろうの当事者、臨床心理士がそれぞれの分野について直面した問題について報告され、あらためて、震災が彼らにもたらした被害の深さについて痛感。なかでも、メンタルクリニックで働く臨床心理士の方は、まさに僕が懸念していたことが多かれ少なかれ広く起きていたことを報告したので、機会があればあらためて話を聞きたいと思い、名刺交換させていただいた。2日目の医療に関する分科会では、地域医療などさまざまな医療分野の論客として知られる色平哲郎先生の講演の後、いわゆるワークショップが行われ、参加者がいろいろと問題を付箋に書き、それをグルーピングした。

このイベントでは、いくつかの興味深い出会いがあった。まず会場に着くと、フォトジャーナリストの山本宗輔さんに声をかけられた。全体会の終了後、春日匠さんにも声をかけられた(彼は企画にもかかわっているらしい)。春日さんといっしょにいたのは、先日、あるところで同席したのだが、惜しくも話す機会がなかった人で、今回、少しお話することができた。機会があったらお話を聞くことなどをお願いできた。長岡さんがある人と話しているのを横で聞いていたら、あまりに興味深いので、ご挨拶したら、なんと前述の色平哲郎先生だった。これは驚いた。チェルノブイリのこと、南相馬のことなどいろいろと話をうかがう。色平先生は周知の通り、医療問題ではかなり論客だが、直接お話して印象的だったのは、人の話をよく聞くことだ。発言力のある人、というか、声の大きい人のなかにはは、他人の話をまったく聞かない人が少なくない。一見、議論している相手を論破しているように見えても、単に相手の話を聞かずに一方的に持論を述べ続けているだけ、という光景は、たぶんみなさんもしばしば目にしているのでは? 色平先生は、まったく逆。しばしばこちらにも質問を投げかけてきて、耳を傾け、そしてまた鋭くコメントする。その態度には、有名人には珍しくない傲慢さはまったくない。宿で、色平先生をまじえて長時間対話できたのは、非常によい経験であった。
ちなみにその席には、僕と長岡さんのほか、ライターKさんとウクライナアメリカ人文化人類学者(の卵)Aさんもいた。Kさんには、会場で「粥川君では?」と声をかけられたのだが、僕は失礼にもすぐに思い出すことができず、 数秒してから、20年ほど前に数回お会いしたことのある人だということを思い出した。現在はニューヨーク在住とのこと。故郷がいわきらしく、帰国を利用して参加しているとのことだった。ニューヨークの話とかもっと聞けばよかった。いちど訪ねてみたいなあ。文化人類学徒Aさんとは初対面だと思っていたら、先日の科学技術社会論学会のシンポジウムに参加していて、先方は僕のことを知っていた。ウクライナ生まれ、アメリカ育ちで、現在、東日本大震災、とくに原発事故についてフィールドワーク中だとか。まだ若いが、日本語はおそろしくうまい。きっといい研究をしてくれると期待。ということで、イベント自体きわめて興味深かったのだが、僕個人にとっては今後の取材の足がかりをつくることができたうえ、思わぬ出会いが多かったことが収穫だった。あらためて長岡義幸先輩に感謝。


なお同イベントの終了後には、いわき市議佐藤かずよし氏によるウクライナ調査報告会があったので、それにも参加してきた。同氏の報告はもちろん、木村真三先生の講演もきわめて興味深かった。周到な調査にもとづいているのだから、当然といえら、当然といえば当然なのだが。さすがに疲れ、帰りのバスでは爆睡しながら、関東に戻った。

「ふくしまフォーラム」では色平哲郎医師から『チョルノブィリの火』という本の存在を教えてもらった。ウクライナの軍人(?)がウクライナ語で書いたもので、ウクライナ語から直接日本語に訳されている。確か先生が持っていたのは、たしか3.11以前に印刷されたものだった。調べてみると、その後、取次を通るかたちで出版されたのだろうか、2012年2月に発売されたことになっている。ちょっと高いが、読んでみるかな。ウクライナといえば、同国を視察した佐藤かずよし・いわき市議は、同国からチェルノブイリ関連の法令集を持ち帰ったようだ。もちろんウクライナ語で書かれている。風の噂では、ウクライナの賠償関連の法律の日本語訳が一部で読まれているらしい。もちろんウクライナと日本とでは事情が違いすぎるので、同地のやり方がそのまま適用できるわけではないだろうが、何かしらの参考にはなるだろう。そういえば、ウクライナといえば、ふくしまフォーラムで知り合ったアメリカ人人類学者Aさんもウクライナ出身だったなあ。同国にいたのは6歳ぐらいまで英語のほうが得意らしいが…。

チョルノブィリの火―勇気と痛みの書

チョルノブィリの火―勇気と痛みの書

  • 作者: ヴァスィリシクリャル,ムィコラシパコヴァトゥイー,V. Shkliar,M. Shpakovatiy,河田いこひ
  • 出版社/メーカー: 風媒社
  • 発売日: 2012/02
  • メディア: 単行本
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版元より献本していただいた小泉義之『生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー』(青土社) を拝読。著者がここ数年書きためてきた、健康や病に関する哲学的な考察をまとめたもの。クローンに関する記述は、僕からすればポイントを外しているようにも思えるが、アガンベンドゥルーズ=ガタリ日本国憲法の解釈などはたいへん勉強になった。とくにアガンベンに関しては、いくつかの引用を、アガンベンのテキスト(もちろん邦訳)で確認させていただいた。僕は『バイオ化する社会』(青土社)で、アガンベンの『ホモ・サケル』(以文社)や『人権の彼方に』(同)を引用したが、『アウシュビッツの残りのもの』(月曜社)にも重要な記述があることを発見できた。そういえば、先日、池袋のリブロで対談した檜垣立哉先生の『ヴィータ・テクニカ』(青土社)でも、いくつか気になるフーコーなどからの引用があったのだが、檜垣先生はそのほとんどを原著から引用しているので、邦訳しか手元になく、もちろんフランス語もたいして読めない僕としては残念に思ったことを思い出した。『生と病の哲学』に戻ると、僕はES細胞やiPS細胞を論じるとき、ドゥルーズ=ガタリの有名なフレーズ「器官なき身体」を援用しようと思った(が躊躇して結局やめた)ことが何度かあるが、同書は「「器官なき身体」は、現在と未来のバイオの動向を予言していた」と書き、そのイメージをがん細胞、受精卵、そして幹細胞に重ねる。その論述はきわめて興味深く刺激的だが、バイオ技術に公的的なその結論への道筋はいまひとつ理解しかねた。

生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー

生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー

なおやはり版元より献本していただいた、前述の『ヴィータ・テクニカ』は、「生命とは物質=質料的なものであり、そうであるかぎりにおいて、われわれは、自己の生命的質料性をさまざまなに操作する可能性に満ち溢れている」ということを大前提に、生命の受動性と技術の能動性の「狭間を描」いており、タイトル通り、生命と技術の哲学=ヴィータ・テクニカを提唱している書物である。しかしながら、この生命と技術の哲学が、帯に書いてあるような「臓器移植、遺伝子操作、脳科学からiPS細胞」といった現実社会の問題群をどのように分析しているか、ということについては、この本を読んだだけではわからない。それは読者の側の義務で、この本はその哲学的ヒントを提示するにとどめているようだ。僕は読者としてその義務を果たそうと思う。

ヴィータ・テクニカ 生命と技術の哲学

ヴィータ・テクニカ 生命と技術の哲学

著者である市野川容孝先生より献本していただいた『ヒューマニティー社会学』(岩波書店)は、社会学の起源を論じている。著者は数年前の『社会』(岩波書店)にて、「社会」という概念そのもの、あるいは「社会的なもの」の起源をすでに論じているが、同書は、著者の、そして僕の専攻でもある社会学の起源を批判的に論じている。とくに現在、「医療社会学」と呼ばれているものや社会疫学もしくは社会医学と、社会学そのものとの関係はきわめて興味深い。もちろん社会学礼賛の本ではない。書誌情報が学術書のように正確ではないのが残念だが、邦訳のあるものは検索できるようにしてある、と述べられている。同書の第4章「社会学リベラリズム」では、マックス・ヴェーバーの「客観性論文」が取り扱われているのだが、批判しているようにも読める。僕としてはきわめて重要なことが論じられているように思う。当の「客観性論文」と合わせて、読み直そう。

社会学 (ヒューマニティーズ)

社会学 (ヒューマニティーズ)


順番がめちゃくちゃだが、先週28日(木)には、試写を2本観た。
1本は、イランの巨匠アッバス・キアロスタミ監督の『ライク・サムワン・イン・ラブ』。同監督は前作『トスカーナの贋作』では、イタリアを舞台にしていたが、今度の舞台はなんと日本。社会学を教えていたという元教授、デートクラブ経由で彼と知り合う女子大生、その恋人だという男の、やや奇妙な約1日を描いている。ストーリーらしいストーリーはなく、台詞は断片的で、沈黙も多い。こういうのを「アート映画」というのだろうか? つまらなかったわけではないが、日本に住む日本人としては、『ロスト・イン・トランスレーション』や『バベル』(の日本篇)を観たときのような居心地の悪さを感じた。日本を「不思議な国」とみなすのもいいけど、もうちょっと現実の日本を直視できないのですか、と。細かいことだが、試験を終えたという女子大生が、元教授に「進化論を提唱したのってデュルケーム?」と聞き、元教授は「それはダーウィンデュルケームは進化論を援用した人」と答えていた。デュルケームも進化論を援用したかもしれないけど、進化論を援用した社会学者って、普通はスペンサーじゃね、とツッコミを入れてしまった。それとも元教授の説明で正解なのだろうか? 
2本目は、チョン・ジェホン監督の『プンサンケ』。脚本と製作総指揮はあのキム・ギドク! プンサンケとは、もともとは北朝鮮の犬種の名前だが、同国のタバコの銘柄でもあり、それを吸う主人公もそう呼ばれている。主人公は、ソウルとピョンヤンを行き来し、離散家族の手紙やビデオメッセージを運んでいる。彼が韓国人なのか北朝鮮人なのかははっきりしない。そもそも彼は一言もしゃべらない。彼は、脱北した北朝鮮高官の愛人を、ピョンヤンからソウルに連れてくるという仕事を請け負う。その過程で2人は好意らしきものを抱くようになる。しかし、依頼者である韓国情報員に裏切られ、さらに北朝鮮工作員もがからんでくる。深刻な政治問題を背景にしながら、ラブロマンスあり、アクションあり、サスペンス的な大展開もある、エンターテインメント作品に仕上がっている。主人公は途中何度か「お前は北か南か?」と拷問されるのだが、日本でも最近、似たような「踏み絵」が横行しているよなあ、と思ったのは余談である。秀逸。脱北問題をストレートに描いた『クロッシング』と合わせて観てほしい。


追記。『プンサンケ』で思い出したが、先々週ぐらいに『クーリエ 過去を運ぶ男』という映画の試写も観た。監督は『パラダイス・ナウ』のハニ・アブ・アサド。こちらも正体不明の「運び屋」の話。主人公は居場所も生死もわからない男にある荷物を届けるように依頼され、関係者を訪ね歩くが、彼らは次々と命を落とす。そして記憶をなくした彼の正体がやがて明らかに…という話。『トランスポーター』ともやや似ているが、もう少し地味かも。まあまあ面白かった。