iPS細胞、『This Is Not a Film(これは映画ではない)』

ノーベル賞発表は今夜か、毎年いっているけど、医学生理学賞で山中伸弥先生、文学賞でハルキ・ムラカミが同時にとると、僕的には盛り上がるんだけど……と思いながら、今日はメーガクの非常勤「技術と人間B」の第3回目として「ファン・ウソク事件」について動画を見せて解説した。手を挙げて質問をした人が2人もいた! 大学教員ならわかると思うけど、いまどき授業で手を挙げて質問する学生なんてめったにいない。そして2つの大学で教えていてその差に気づいてしまうことはうれしくもあり悲しくもある。


いつも前から三列目に座っている女性3人がいる。両側の2人は速記のようなスピードでノートをとっている。真ん中の人はそれほどでもない。ちらちらと両側を見ている。真ん中の学生さんが聴覚障害者で、両側の人がノートテイキングしていることに今日気づいた。


非常勤と映画鑑賞から帰室したら……山中伸弥先生がノーベル医学生理学賞を取ることが決まっていた。しまったな、非常勤で「今夜ノーベル賞発表なんだよ、2007年にはES細胞の研究でね」と、講釈をたれておけばよかった、と後悔した。
ツイッターではいろいろと不真面目なことをツイートしてしまったが、真面目にツイートしておくと、iPS細胞でもELSI的な問題が生じる可能性はある。文献はいろいろとあるが、比較的包括的なのは、日本の研究者も著者になって『セル』に掲載された論文であろう。

Cell
Volume 139, Issue 6, 11 December 2009, Pages 1032–1037
Cover image
Commentary
iPS Cells: Mapping the Policy Issues

http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0092867409014974

「ちぇ、いまさらELSIかよ」なんて冷笑する人が出てこないことをキボンヌ。
ちなみに僕が今日の非常勤で話した「ファン・ウソク事件」は、幹細胞研究の「黒歴史」である。熱に浮かされて忘れてはならない。3.11と同じく。


夕方、渋谷のイメージフォーラムで『This Is Not A Film』(ジャファール・パナヒ監督)という映画を観る。あ、イケね、「映画」じゃないのかな? 僕はイメージフォーラムという映画館が大好きだ。イメージフォーラムは渋谷からまあまあ近いとはいえ、少しわかりにくいところにある。つまり「映画を観るぞ!」という強力な意志がある人のみが映画を観る場所である。なんとなく行ってしまうショッピングモールに存在し、なんとなく入ってしまうシネコンとは違う。僕は、スマホを眺めながら、自動改札を通り抜ける人々を見るたびに、アガンベンらのいう「動物化」という言葉を思い出さずにはいられない。僕には現代人は、近代的「人間」というよりは、(ポストモダン的?)「動物」あるいは「家畜」に見える。情報技術のネットワークは、人と人をつなぐと同時に捕らえて離さない「網として機能」しているように。人間と人間以外のもの、たとえば動物との違いは、いろいろとあるだろうが、最も大きな違いは主体性、能動性、ひらたくいえば意思の有無、もしくは強さであろう。話が大きく脱線したが、イメージフォーラムは、都市の動物的人間たちが人間的本性を取り戻す場所なのである(大げさ)。そこで『This Is Not a Film』を観た。
この映画のことを最初に知ったのは、町山智浩さんがTBSのラジオ番組「たまむすび」で紹介していたのを聴いたときのことだったと思う。その内容を聞いて、いくらイラン映画がプチブームだとしても、これは日本では公開されないだろう、と思っていたら、先日、斉藤勝司さんが「今日はこれ観てきたよ」とパンフレットを見せてくれ、驚き、そして今日観てきた次第。
『This Is Not a Film(これは映画ではない)』という題名は、マルグリットの「これはパイプではない」を思い起こさせる(と思ったら、パンフに転載されていたレビューでも指摘されていた)。いや、マルグリットを正確になぞるなら、「これは映画監督ではない」というタイトルになる。「これはパイプではない」で描かれていたのはパイプであり、『This Is Not a Film』で描かれているのはまさしく映画監督なのだから。
そんなことはともかくとして、本作の監督はイランで映画製作を禁止させられてしまい、自宅で軟禁状態にされているらしい。その理由は、映画のなかでははっきりしなかったのだが、パンフレットに掲載されていたレビューによると、同監督が前年の大統領選挙で穏健派の候補が遠因らしい(どういう法律に抵触したのだろう?)。
しかしながら禁止されているのは、映画を製作することなどであって、脚本を読んだり、被写体になったりすることではない、ということを逆手に取って制作したのがこの作品であるらしい。監督は自分が軟禁されている自宅マンションに友人の映画監督を呼びつけ、自分を撮影させる。監督は自分の過去作品のDVDをかけて、それにいろいろ講釈をたれたり、ボツになった脚本を読み上げ、さらにはその内容を室内で演じたりする。ちょっと喜劇的な展開。途中何度か、「はッ」とわれにかえる。監督が友人に「これ映画じゃないよな」とかなんとかいって、友人が監督に「俺に聞くなよ」と答えたのは笑えた。監督が突如、脚本を読んですむなら映画を撮る意味なんてない、とブチきれて画面から去ったのは、「素」だったのか、それとも演技だったのか(僕は後者だと思う)。カメラはしばしば、放し飼いにされているペットのイグアナを追うのだが、これは軟禁されている彼自身のメタファーであろう。後半で、監督の自宅のテレビでは、東日本大震災の様子が報じられ、監督はため息をつく。外からはバンバンという音が。内戦ではなく、火祭りらしい。監督はカメラを持ち、エレベーターに乗って……。エンドクレジットには、監督と撮影を担当したモジタバ・ミルタマスブの名前しかない。「Thanks to colleagues」や「Many Thanks to」には「●●●●●●●●」が並んでいるだけ。最後に「Dedicated to : Iranian Filmmakers(イランの映画監督(たち)に捧げる)」とあるのは泣かせる(字幕でもパンフでも「たち」がなかったが、あるほうがいいと思う)。たとえ弾圧されても、規制があっても、「映画」を撮ってやるという監督の気概はすばらしい(その意味では、森達也さんのテレビドキュメンタリー(と著作)「放送禁止歌」を思い出した)。動物的人間が人間的本性を取り戻す場所で観るのにふさわしい作品である。
ところで、日本ではイランのような表現規制はないか? もちろんないことになっている。しかし逮捕や自宅軟禁のような弾圧がないことは、規制がないことを意味しない。日本(やいわゆる先進国)では、市場あるいは資本の力と無関係に映画をつくることは難しいだろう。それは表面的な弾圧のかたちをとらないだけ、よけいにやっかいであろう。いや、映画関係者たちがそのやっかいさと戦っている気配があるうちはいいが、最近、その気配をあまり感じないことも僕は気になっている。