『草原の実験』

午後、ふと試写があることに気づき、いつもの京橋の試写室で『草原の実験』(アレクサンドル・コット監督)という映画の試写を観てきた。これが予想外の傑作だった。
映画の舞台は数十年前の旧ソ連圏のどこか。後述するような雰囲気から、1950年代のカザフスタンあたりだろう、と予想して観ていたのだが、後でプレスキットを読んだところ、1949年のカザフスタンをモデルにしているようだ。
見渡す限り草原の大地に立つ一軒家で、少女が父親と暮らしている。少女も父親も、ボーイフレンドっぽい少年もモンゴロイドである。そこに白人の少年が訪れて、三角関係のようなやりとりがなされる。
ひたすら美しい画面が続く。父親が夕日を食べているように見せるところなど、美しいだけでなく、ユーモアや安心感をもたらしてくれるシーンがすばらしい。しかし、そんな平和は続かないのだ。
あるとき、父親が体調を崩し、近くでとてつもないことが起きていることがわかってくる…。
『草原の実験』というタイトルと「タルコフスキーの『サクリファイス』を想起させ…」、「“風吹く”ロードショー」といった宣伝文句からその後の展開は想像ついたのだが、実際、想像通りにに物語は進んだ。しかし物語が想像通りだったからといって、つまらなかったわけではない。
この映画の作品としての最も大きな特徴は台詞がないこと。しかし物語は十分すぎるほど伝わってくる。映画には過剰な台詞など不要、という映画通・映画人たちがよく口にする見解を再確認した次第。台詞がない映画はいくつかあるが、僕はキム・ギドグ監督の『春夏秋冬そして春』を思い出した。無口な親子が終末に向き合う、という展開は、数年前に観た『ニーチェの馬』(タル・ベーラ監督)に似ているかもしれない。
僕が強く惹かれたのは、音、色、光、そして構図である。とりわけ、これでもかというほど頻発する左右対称の構図の美しさに目を奪われた。もしかすると、全カットの半数以上が左右対称かもしれない。当然ながら、スタンリー・キューブリックウェス・アンダーソンの諸作品を思い出した。主題が近いものとしては、チェルノブイリ事故後に放棄された街を撮ったドキュメンタリー映画なのに、左右対称の画面が頻出する『プリピャチ』(ニコラウス・ゲイハルター監督)をも想起させた。
実験が描かれる実験的な映画である。秀逸。すべての人にとって面白い作品ではないかもしれないが、3.11を経験した多くの人に観てほしい作品である。そして3.11後の日本で、近い主題を扱った映画はたくさん制作されているのに、どれもこの作品に及ばないことを残念に思う。