翻訳という細い道

 ある事情で、翻訳について再考させられる機会があった。
 知っている人は知っていると思うが、僕の仕事のキャリアは、実は単行本の翻訳から始まったのだ。翻訳には、訳者としても読者としても、それなりにこだわりを持っている。訳者としての実力は措くとしても。
 私見では、翻訳という仕事において、目標として求められるもの、気をつけるべきことは3つある。第一に「正確さ」であり、第二に「読みやすさ」であり、第三に「統一感」である。ここでは便宜的に順序を付けたが、この3つの目標は相反するものではないし、どれかを優先すべきというものでもない、というのが僕の意見である。むしろこの3つは、お互いを強化しあうものだろう。しかし世の中には、「統一感」はともかくとして、「正確さ」と「読みやすさ」はしばしば相反するもので、どちらかを優先するしかないのでは、という意見もあるようだ。そうだろうか。僕は、原文の文法構造をしっかりとつかみ、著者の意図するところをしっかりと理解すれば、「正確さ」と「読みやすさ」は十分に両立するものだと思う。
 しかしながら、可能ではあるが、難しいことである。そのことは十分に理解している。そして時間という条件も重要だ。たとえば単行本だったら、出版されるのは早いほうが望ましい。出版が遅れれば、その分価値も下がってしまう本だって多いだろう。だとしたら上記3つの目標のうち、どれかを優先せざるを得ないこともあるかもしれない。たとえば学術書の場合、どれを優先すべきか。しかしその学術書の主な想定読者が学生だとしたらどうだろう。答えは揺らぐはずだ。
 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』をはじめとする新訳ブームと、それらに対する誤訳指摘騒動のことはもちろん知っている。わりと有名な“亀山訳検証サイト”ではこれまでの既訳も並べられて紹介されているので、それらのテキストを読み比べると、ロシア語をまったく読めない僕でさえ、亀山訳には大きな問題があると思えてくる。(森岡正博さんによると、ミルの『自由論』の新訳にも問題があるらしい。)
 しかしながら、読みやすいと評判の亀山訳の普及のおかげで、人々の関心がドストエフスキーに、ロシア文学に、翻訳古典文学そのものに向かうとすれば----それは、一般読者だけでなくロシア文学の専門家、翻訳業界関係者にとってもよいことだとも考えられる。もちろん、誤訳の指摘は大切だ。批判の的になっている一連の“新訳”も、重版のさいには修正されているとも伝えられている。とりあえずは、それでいいのではなかろうか。甘いかな。
 正確さと読みやすさ。そのあいだに存在する道は細い。確かに。僕としても妙案や確信があるわけではない。しかしわれわれは、その細い道を通らなければならない。10.1.22